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二人の出会い
▼ 2014.04.21(Mon) ついてくるもの
【大学生編 01 ついてくるもの】
[2014年4月21日(月)]
「なんでそんな怖いって思うわけ?見えてんのに」
「見えてるから怖いんだろ」
「俺は……」
――見えないモンの方が、よっぽど怖いよ。
しまった。こんな所で。
この春から大学生活が3年目に突入した俺は通い慣れた薄暗い住宅街の一角で立ち尽くしていた。
気付かなければ良かったのに、気付いてしまったものはもう遅い。電球が切れているのか、灯りの点いてない街灯の下、その暗がりに不自然な人型の影。
――ああ……見てしまった。
素知らぬフリで通り過ぎるか諦めて一旦引き返すか、かれこれ数分間は熟考してしまっていた。駅へ行くにはこの道を通る他ないが、素知らぬフリが出来るか?こんな狭い道で、ほとんど真横を通るのに。
しかし変に引き返す事で目をつけられるのも怖い。いや、ここでこうして悩んでいる時点でもう目をつけられているかも……。
「なあ、アンタ何してんのこんな所で」
極度の緊張の中、後ろから急に呼びかけられて心臓が飛び出すかと思った。しかし、人だ。これは有り難い。
流れで一緒に通り過ぎさせてもらおう。そう考えて振り返ると、声の主は良い体格をした青年だった。これは更に頼り甲斐がある、と内心ホッとした。
「信号も何も無いってのに。なんか待ってんの?こんな暗闇でさ、変質者かと思われるよ」
しかしその不躾な発言に思わずムッとして返す。
「いや、何も待ってないです。なんでそんな変質者に声かけるんですか?」
「や、俺はアンタがそこの大学の人だってわかってっから」
どうして。と顔に書いてあった事だろう。
「大学の前のカフェで友達待ってたんだよ、アンテノール。その時に大学から出て行くアンタをたまたま見かけて。んじゃ俺、約束すっぽかされて。帰ろうと思って今ここ」
俺より10分くらい前に歩いてったと思ったけど、なんでこんな何も無い所で立ってんだと思って…だと言う。
気になったからって、話しかけるか?普通。と思いつつもおかげで助かったからツッコまないでおこう。俺は自然な流れを装って歩き出した。
「いや、えっと、忘れ物して。取りに帰るか悩んでただけで……10分も経ってたとは」
「ふーん?」
これは信じていないな。
「……それに、見たく無いものを見てしまう気がして」
「ゴキブリの話か?踏み潰せよそんなもん」
半信半疑な顔でその男もつられて歩き出す。
「そんな話誰もしてないですけど」
「んじゃなんだよ、ボヤかした言い方しやがって」
人と話していれば気がまぎれる。俺は"ソレ"の横を無事に通り過ぎた。
「良かった……」そう心中で胸をなでおろした瞬間だった。
「うお!なんだビックリした。あ?あれ人か?なんだ、暗いから気付かなかった」
おい、バカ。何を。
背筋が凍った。もしかしなくても、その男は今、必死で俺が目を逸らしていた"ソレ"に反応したのだ。
「な?あんな暗がりによお、ビックリすんじゃんね」
なるべく平常心を装い、今すぐ走り出したい気持ちを抑えて、とにかく前を見て歩き続けた。
刺激してしまうことが一番恐ろしいのだ。
「なあ、なんでアンタついてくんの?」
「駅がこっち…というか、ついてきてんのはお前だろ」
「あっ、急に口わりーの。なんだよ。なあ、あれビックリすんだろ?ほら……あれ?」
そう言って振り返った男はまた何事でも無いかのようにサラリと言った。
「さっきの暗がりにいた変なやつ、ついてきてんだけど」
なあなあ。と呑気に振り返らせようとしてくる手を振り払って小声で早口に怒鳴る。
「それ以上アレについて話すな。見えてないフリをして、気付いてないフリをして、記憶からも消せ」
この男は話を聞いているのかいないのか、俺が怒ってるというのに、急に肩を引き寄せてきた。
「いや何してんだ!」
「いやなんか、震えてるから」
アンタこえーの?あれ。と聞かれて、怖いに決まってんだろうがと大声で怒鳴りそうになった。
駅に着くと丁度自分の向かう方向のホームに来ていた電車に俺は一も二もなく飛び乗った。どうやらあの男は反対方向らしく、特に挨拶もなく反対のホームに立った。
その背後には影。しかしどういう事か、やつには見えていないらしい。
「……よかった」
あの様子なら、あいつは大丈夫だろう。ああいう手合いの者は反応しないに限る。
目が合ってしまわないように、体ごと振り返って車内に向き直ってから、大きく安堵のため息を吐いた。
【ついてくるもの 完】
▼ 2014.04.24(Thu) 大学構内の4つフシギ
【大学生編 02 大学構内の4つフシギ】
[2014年4月24日(木)]
「なあ、アンタ」
呼びかけられてノートパソコンの画面から視線を上げた。
ここは大学構内にある広場の端、まだすこし肌寒くはあるが、日当たりの良いベンチが心地良い季節になってきたのでレポートをこうして外で書いていたのだ。
「…あ」
「あ、じゃねえよ」
見覚えのある立派な体躯の男。暗くてあの時はわからなかったが、美容院で手入れしていそうな計算されたウェーブヘアは大分明るい茶髪だった。
「アンタ、アレがおばけだって知ってて無視しやがったな」
「おばけって…」
それがわかる何かしらの事件があったのだろうが、やつれたりしている様子もなくケロリとしている男に呆れる。
「夜寝ててもうるせーし、何とかしてくれよ」
「何とかって…ま、まさかまだ憑いてるのか!?」
見る限り近くにはいないようだが。急に尻の座りが悪くなってそそくさと逃げ出そうとした。その瞬間、何者かが猛スピードで目の前を走り抜けて思わず仰け反る。
「おっ…と」
しかし妙な感じがして、パッとソレが走り去った方を見やったが、見通しの良い広場には俺たち以外に誰もいない。
「どしたの急に、あ、もしかして七不思議のやつ」
「七不思議?」
「いや正確には四つしかないらしいけど」
・旧部活棟に現れる地下2階に続く階段
・異世界みたいな真っ赤な空が映る屋内駐輪場の窓
・学内どこにでも突然現れて目の前を走り抜けるナニか
「なんだそりゃ…」
「ターボばばあってやつ?ちょい違うか」
「くだらん都市伝説か」
「あとなんだったっけ」
「どうでもいい」
「あ、2時になると誰もいなくなる広場だよ」
「広場?」
「ここの事かな」
誰もいなくなるって、どういう意味だ?俺は奇妙な不安に襲われて、現在時刻を確かめようとスマホを手に取る。もうすぐ2時になろうとしていた。
「…くだらない噂話だろ」
「じゃあさっき何で転けかけたわけ」
「立ちくらんだだけだ」
――早く、別の場所に移動したい。
そんな安っぽい都市伝説のようなものなんか気にしているわけではないが、気持ち悪いのも事実だ。
しかし立ち上がった瞬間、ピンと空気が張り詰める感じがしてギクリとした。パッと横を見るとさっきまで話していた大柄の男がいなくなっている。
あんな大きいやつが隠れられる場所なんかない。ぐらりと足元が揺らぐような気がして思わず目を閉じた。
「なあって」
聞き覚えのある声に呼びかけられて、ガバッと顔を上げると広場は行き交う学生たちで賑やかで、目の前には大きな人影があった。
「あ…れ、俺、寝てたか?」
「よく人と喋ってる最中に寝落ちられるよな。疲れてんならこんなトコでレポートなんか書いてないで帰って寝なよ」
いつから夢だったのだろうか。奇妙な白昼夢だった。そしてこの男の顔を見てホッとしてしまった事を不覚に感じていた。
「ああ、そうする…」
特に意味もなく、手癖で時計を見るともうすぐ2時だった。このタイミングのデジャヴに俺は思わず慌てて目の前にある物をとにかく掴んでしまう。
「っあ」
「あ?」
それは男のシャツの裾で、まさに意味不明だと言いたげな目に睨まれたが、立ち上がった後にこいつも周囲の人々も消えずに居る事に再三ホッとしてしまった。
「いや、ちょっと立ちくらんだ、悪い」
「なに、怖いから家まで送れって言ってんのかと」
「お前が付いて来る方が怖いから。まだこの前のアレ、憑いてんだろ」
「央弥」
立ち去りかけた俺の背中に男はそう言い放った。
「はあ?」
「お前、じゃなくて、東丸 央弥(とまる おうや)」
覚えておいてよ。そう言って屈託無く笑う。
友達にでもなったつもりか。いやそれより、今は早くここから逃げ出したい。イライラと呑気な笑顔を睨みつける。
「どうして覚えておく必要があんだ。じゃあな」
「なんでそんな急いでんの?さっき怖い夢でも見た?」
不愉快で、もはや質問さえ無視して歩き出した。しかし東丸は気を悪くもせずに数歩後を付いて来やがる。
「なあなあ、あのベンチに纏わる七不思議って知ってる?あそこで作業とか勉強とかしてるとさ…」
「七でも四でも知らないし、興味ない。付いてくんな」
ピシャリと言い渡して、半分駆け足で立ち去った。
「んっと口わりー、意味わかんね!」
後ろから笑いながら東丸が何か言っているが無視した。
【大学構内の4つフシギ 完】
▼ 2016.02 某日 信号待ち
【未来の話:信号待ち】
[2016年2月某日]
ブブ、とポケットが震えて、ほとんど条件反射的にスマホを手に取る。
それ自体は大した通知では無かったが、ついでに信号待ちで退屈だったので、何を見るでもなくネットを開いたりしていると視界の右端に写っていた足が歩き出したので、つられて足を踏み出した。
「ストップ!」
「ぅ、ぐっ」
何か考えるより先に声が出て、その後に苦しいという感覚が襲ってきた。首を絞められた、いや、襟首を遠慮なく引かれたのだ。
そしてその瞬間、トラックがクラクションを鳴らしながら目と鼻の先を猛スピードで走り抜けた。歩行者信号は赤だった。
「気をつけてよ、まじで」
「…は…っ…」
しばらく何も言えなかった。まだ心臓がバクバクとおさまらない。
「…助かった」
震えながらようやく振り返って、自分を救ってくれた人物に礼を伝える。
「ほんと怖がりなくせに鈍感だよな。アンタの横で待ってた足、最初から下半身しか無かったんだけど?」
変だと思って声かけに来て良かった。そう言って呆れたようにため息をつくのは案の定というか、央弥だった。
「周りも見えないほど何見てんの?インスタ?俺の周りの奴らも目の色変えて何でもかんでも写真ばっか撮りやがって」
「…写真は嫌いだって言ってんだろ」
「え、いまだに?」
「放っとけ」
俺は今度こそ信号が青になった横断歩道を歩き出した。
【信号待ち 完】
▼ 2014.05.01(Thu) 視線
【大学生編 03 視線】
[2014年5月1日(木)]
小さい頃から、俺にとって"ソレ"は当たり前にこの世に存在するひとつの生き物のうちのひとつだった。犬や猫、虫と同じ。
だがいつからそれが普通ではないと気付いたのか。そしてその事に気付くと同時に、俺にとってソレは恐怖の対象となっていった。
「葛西さん」
知らず緊張していたのか、間近で呼びかけられるまでこいつの接近に気付かなかった。努めて冷静に視線を上げると、こいつには怖いものなどないのかと思う呑気な男が立っていた。
「…どうして俺の名前を知ってる」
「いろいろ聞いて回った」
アンタ、葛西 辰真(かさい たつま)っていうんだろ。とフルネームを再度口にされて睨みつける。なんなんだこいつは。馴れ馴れしい。
ギギギギ、と無遠慮に音を立てながらイスを引くので「静かにしろ」と注意した。ここは大学のすぐ側にある市立図書館の一角だ。
安いコーヒーサービスに古めの資料もあるので、生徒たちがよく利用している。ニコニコと笑みをたたえたまま向かいの席に東丸が腰を下ろしたので、俺は苦虫を噛み潰したような表情をしていた事だろう。
しかし、まあ…こんなやつに頼るのは非常に 癪 だが…。
「なあ…俺の後ろ、何か見えるか?」
「ん、後ろ?そっち?」
「指をさすな」
東丸は視線だけを動かして右側をゆっくりと探った後、左側を見て、正面を見つめた。つまり俺の目を。
「…おい、ふざけてんじゃ」
「あ」
言うと同時に視線が上に移って、つられて顔を上げそうになった俺は何か見てしまうんじゃないかと慌てて顔ごと目を伏せた。
しかしそれから数秒後、頭上からくすくすと笑い声が聞こえてきて謀られたと気付く。
「てめっ」
「俺がここに来た時からいるけど、何?アレ」
今度こそ、その視線は俺の顔のすぐ横を通り過ぎて後方へ伸びていた。明らかに何かを見ている。
「顔が潰れてる」
空が晴れてる、くらいのテンションで告げられた言葉に身の毛がよだった。
「俺から見て、アンタの右後ろの本棚から体半分だけ見えてる。多分だけど男だな。顔は」
「もういいから、あんま見んな」
細かい情報は欲しくない、と遮る。東丸は机の上で少し震えた俺の手を見てイタズラ心でも沸いたのか、ニヤニヤと立ち上がった。
「こっち見んなって文句言ってこようか」
「やめっ、おい!」
慌てて止めようと手を伸ばしたがスルリと避けられ、背後で何やらボソボソと話し声が聞こえている間、俺はもうずっと生きた心地がしなかった。
「葛西さん」
「なんだよ」
「いいから、ちょっとこっち見てって」
何がおかしいのか。
笑いを含んだ声に耐えきれず俺は敢えてガタッと音を立てて立ち上がり、全力で走って図書館から飛び出した。
「っはぁ…はぁ…」
まだ心臓が高鳴っている。信じられない、なんなんだあいつは。笑い事じゃない。
かすかに聞こえてきた東丸の言葉を必死で頭から追い出した。
――なあ、なんでずっとあの人の事見てんの?
――とりま出て来いってこら……あ。
――別に半分隠れてたわけじゃねえのか。
【視線 完】
▼ 2014.06.02(Mon) 芽生えた好奇心
【大学生編 04 芽生えた好奇心】
[2014年6月2日(月)]
「やだ、私なんかここ気持ち悪い」
「は?何が」
仲間内で呑んで次の店を探して歩いていた時、隣を歩いていた友人が急にそんな事を言い出して、央弥は辺りを見回した。
「変に薄暗いよ、別に物陰でもないのに」
「そっか?」
立ち止まると服を雑に引っ張られて歩き出す。
「早く行こ!」
「おーい、店決まったって」
「おお」
もう一度振り返ってみても、何も感じられない。
夜なんだし、暗いのは当たり前じゃね?くらいにしか央弥は思えなかった。
しかし仲間たちと居酒屋に入るとガヤガヤとした独特の空気に、すぐそんな事は忘れ去って騒ぎを楽しんだ。
「二日酔いで頭が痛い」…と、頭の中で呟きながら目を覚ませばまだ窓の外は夜明け前で薄暗かった。
「…のど、かわいた」
ヒビの入ったコップを手に取る。
ついてきたって、見えないし感じないし、何にもならないってすぐわかるようで、"ソレ"らはこういった小さな悪戯をしてはいなくなった。
「あの人といる時だけ、なんか不思議なモンが見えるんだよな…」
明らかに生きていない元人間の姿をしたモノとか、人型の影とか。さっきの友人、大学のサークルで仲良くなったグループの一人、モモが気持ち悪いと言った場所にも、何かがいたりしたのだろうか。
辰真がいないと、他よりも不自然に薄暗いという事さえ少しもわからなかったが。
「……」
気になり始めると確かめたくなる。央弥はどうにかしてあの恐がりな先輩をあの場所へ連れて行けないものかと思案しながら、吐き気に襲われてすぐに思考はそっちへ奪われた。
次にふと意識が戻ったのは昼の1時過ぎで、予定通り午前の授業をすっかりサボった央弥は、しかし目が覚めたなら午後は出ておくかと講義を受けるために電車に乗っていた。
平日の真昼、ほとんど貸切状態の車両内で寝るのももったいなくてぼんやりと窓から外を見る。
ガタガタと車輪の音が少しうるさくなって、ふみきりを通り過ぎる瞬間に視界に花が見えた。普段は気にもしない事だが、なんとなく途中下車をしてしまう。
改札を出て、しばらく線路沿いを逆行するとそれはあった。せいぜい大型バイクまでしか通れない幅の小さな踏切だ。央弥は先ほどの記憶を頼りに花を探す。確かにあったはずだ。枯れた花束が、この足元に。
「近付くな」
食堂でその姿を見かけて話しかけに行こうとした央弥は珍しくあちらから話しかけられたのだが、その内容は上の通り、完全なる拒絶だった。
「なぁんで」
日替わり定食を食べていた手を止めて、辰真は強張った顔でいる。これは単純に嫌いな相手に対する反応ではない。
「あ、もしかして俺、2名様になってる?」
「どこに行ってきたんだ…いや、聞きたくないからやっぱり言わなくていい」
食欲が失せたと言わんばかりに口元を押さえて、近寄るなよ、と念押しして辰真はトレーを手に立ち上がる。
「立て続けに変な体験したから妙に気になって、つい自分から近寄っちゃった」
3メートルほどの距離を保ったまま、央弥は辰真の後をついて行く。
「何バカな事やってんだ。ついてくるな」
「そんな怖がんなくても、一体こいつに何ができるよ?」
今、その視線は明らかに、辰真が必死で目を逸らしているソレを見ている。
「…見えてんじゃねえか」
「アンタが近くにいる時だけな」
央弥の目には、ハッキリと自分の足に抱きついている小4くらいの男の子の姿が見えていた。右足の膝から下が無い。しかしそれ以外は特に目立った傷もなくキレイだ。
「お前、あそこからずっと付いてきてんのか?」
――僕の足どこ――
それは声ではなかった。
「知らねえし、お前の方が知ってるだろ」
首を傾げる少年に続ける。
「あの小さい踏切で、なんかあったんだろ」
その言葉の直後に少年の右顔面が醜く歪み、頭も上半身も全て、形が崩れていく。辰真は呆然とその様子を見てしまっていたが、吐き気に襲われて慌てて走り去った。
「あっ、ちょ!アンタがいねぇと…」
さっきまで異次元にいるかのように周りが静かに感じていたのに、食堂はたくさんの人で賑わっていて騒がしく、少年の姿もない。
「…ま。思い出したなら、成仏しかねえよな」
大丈夫だろ、と無責任に呟いて央弥は講義棟へ向かうのであった。
【芽生えた好奇心 完】
▼ 2016.02 某日 階段
【未来の話:階段】
[2016年2月某日]
目が合った。
少し古い歩道橋の階段の、段と段の間にある隙間から誰かの目がこっちを覗いていたのだ。しかし気にすることもなく上り続けた。
…だというのに、後ろをついてきていた同行者は興味深げに立ち止まりやがる。
「おい、央弥。気にするな」
「いやいや気になるっしょ」
「おいって」
危ないから。そう言っても、怖いもの知らずのこの生意気な後輩は屈みこんでその正体を追おうとする。こんなのは気にしててもキリがない。見えなかったふりをして通り過ぎるしかないんだ……。
央弥は気付いていないのか、その足を掴んで階段から引きずり落とそうとする白い手が見えて、俺は咄嗟にその肩を掴んだ。
「ん?なに」
「危ないから…本当に」
――もしそれがこいつじゃなくたって、目の前で人が落ちる所なんか見たくない。
「お…気付いてなかった。ありがと辰真さん」
そう言って立ち上がった央弥の視線が俺の顔よりも背後に伸びていて、いつかのデジャヴにスーッと背筋が冷たくなるのを感じた。反応するよりも先にドンと何者かに背中を強く押されて前のめりになる。
しかし央弥はしっかりと片手で手すりを握りしめて危なげなく俺を抱きとめた。
「ほいキャッチ」
「…悪い。大丈夫だから、もう離せ」
足元を確認してからしっかりと立つ。膝が笑っていたが咳払いで誤魔化した。先に背後の気配に気付いていた央弥が手を広げて待っていてくれたとはいえ、階段から落ちかければ動揺もする。
「はは、たしかにここは危ないね、さっさと渡ろ!」
「だから言ってんだろ…」
「どっか怪我してない?足首捻ったり」
「してないから」
ありがとな、と言えば珍しいと驚かれる。
「な、早く帰ろっ」
「お前ん家じゃねえだろ」
「はーやーく!」
【階段 完】
▼ 2014.08.16(Sat) 美術館
【大学生編 05 美術館】
[2014年8月16日(土)]
辰真は都立美術館の入り口で、普段は触れもしない芸術的なデザインのチケットを手に取る。
――絵画展、ねえ…。
見に来てくださいよ!と念を押してきた高校時代の後輩の姿がフラッシュバックした。元々、友達の少ない辰真に懐いてくるような変わったところのある女の子だったが、まさかバレー部から絵の道に進むとは。
ちなみにだが、二人が知り合ったキッカケは文化祭の実行委員会で、辰真はバレー部とも絵画とも何の関係もない。
「こんにちは!美術大学合同絵画展の方ですか?」
「の方」と言われるとまるで関係者みたいで変な質問だな、と思ったが、おそらく「見に来られた方ですか」と聞きたいのだろうと黙って頷いておいた。
「あ!チケットお持ちなんですね!こっちです」
どうやら学生たちが交代で受付をしているらしい。いつ来るか言っておけば良かったか、と思いつつも本人に会ったところで、特に話す事もないなと冷たい事を考える。
誘ってくれてありがとう、などと大して思ってもいない感謝を上手く言えるほど辰真は出来た人間では無かったし、むしろ差し入れも何も持たずに来たな…と思い、顔を合わさずに済んで助かったとまで思うほどには非社交的な人間である。
「ではここから入り口になります!中は写真撮影は禁止なんですけど、ここだけフォトスポットにしてるので撮ってもらって大丈夫ですよ!良かったらシャッター押しましょうか」
丁寧だが敬語なんて使う機会が滅多に無いのであろう学生のたどたどしい話し方に素人感を感じつつ、それでもこんな立派な所に作品を飾ったりしてる子たちなんだな、などと謎の目線からの感想を抱いて、ようやく慌てて返事をする。
「あっ、いや、写真は苦手で」
ありがとう、と断って辰真は展示室に足を踏み入れた。平日の昼間という事もあって人は少なかったが、想像よりは多かった。学生仲間か、若いグループがチラホラ、教員らしきスーツの男性や書き手の祖母らしき一枚の絵の前でニコニコと立っている女性。
今回の展示会のコンセプトなんかを書いた額縁の前にもちょっとした人だかりが出来ている。
最初の部屋は人物画のようだ。リアルな作品もあれば、抽象的な作品もあって、どんな気持ちで見るのが正解なのだろう?とどうでも良い事にばかり気を取られて絵に集中できないでいるとつい周りを気にしてしまう。
そんな中、ひとりで角の絵をじっと見つめて動かない少年の背中が気になった。他にも小学生か中学生くらいの子供はいたが、みんな親に連れられている。
通年パスでもあるのか、散歩がわりに来ているといった感じの老人もチラホラいるので、この子も近所の子なのかな?と思いつつ、あんまり熱心に見つめているので辰真は絵よりもその存在感が気になって適当に次の部屋に向かった。
次の部屋は少し雰囲気が変わって風景画のようだ。サラッと見て行く人、全てをじっくり見ている人、ネームプレートを確認して、目当ての人物の作品だけを見て行く人。
辰真は目線だけでキョロキョロして、そのうちのどれにも分類できない、どうすればこの空間に溶け込めるか悩み続けている人だ。誰も気にしてなんかいないのに、自分で自分の居心地を悪くしている。
――あれ。いつのまに。
辰真は先程追い抜かしたと思っていた少年が少し先の絵の前に立っているのを見てそう思った。とはいえ順路があるわけでもない展示室で、その時はそれほど不思議ではなかった。ただ、あんなに熱心に見ていたからまだまだあそこにいるのだろうと勝手に思っていたのだ。
しかし次の部屋には何を飾られていたのか、もう思い出せない。辰真は絵を見ている余裕など無くなってしまった。あの少年が入ってすぐの絵の前に立っていたからだ。
絶対に追い抜かされていない。少年の後ろを通り過ぎた直後の事だったのだから。こうなってしまったらもうダメだ。今すぐここから逃げ出したい。しかし出口は全ての部屋の後だ。気が気でないが進むしかない。"彼"が振り返らないことを祈りながら。
その後のどの部屋にも、やはり辰真より先にその少年はいた。相変わらずどれか一つの作品の前でじっと立ち尽くしている。不自然にならない程度の早足でとにかく出口を目指した。
その時、ふと視界に見覚えのある名前が見えた。チケットをくれた後輩の名前だ。さすがにコレくらいは見て行かないと。気付いてよかった。
そう思いながら視線を上げた辰真は固まった。そこに描かれていたのは振り向いた少年の絵。真っ白な背景に成長期前と見られる細腕や首が絵全体の繊細さを引き立てている。
そして…彼の顔には何も描かれていなかった。
「あ、気になりました?この絵、あっちの部屋に飾られてた絵画を見つめる少年像と対になってる作品なんですよ」
「…え」
絵画を見つめる少年像?
「あれ、後ろ姿しか見えなくて気になるように作られてるんですよ、そしてここにその顔が!…と思ったら、まさかののっぺらぼうで、真実の顔は貴方が想像していた顔ですよ、彼の顔は彼を見た人全員分だけ存在するんです…っていう作品です!」
よく喋る人だ。芸術って、言葉で説明すべきものなのか?辰真は頭の隅でそんな事を考えつつ、大変に長いため息をついた。
「あっ、すみません私また喋りすぎました…実は、この絵を描いた子との合作で、あの少年像は私の作品なんです」
気にしてくれる人がいるとつい説明しちゃって、と反省している様子だが、説明してもらえて良かった。知らなければ気を失い兼ねない所だった。と情けない事を考える。
「いや、ご説明ありがとうございます…良い作品ですね、大変だったでしょう、あんなにたくさん作って」
「はい…?まあでも、好きでやってる事ですから!」
辰真はすっかり落ち着いて、アンケートもちゃんと書いてから美術館を後にした。なんだ。それならもっとちゃんと見れば良かった、と思いながら。
「ああ、やっぱりたくさんって言ってたんだ、聞き間違いかと思った」
「なに?」
「今日の昼間にあの少年像の絵を見てくれてる人がいて、ちょっと喋ったんだけど、たくさん作って大変ですねって言われてさ」
「あんたまた余計な説明したんでしょ」
「ごめんって、それよりほらこれ」
「髪の毛の質感まで、まるで作り物とは思えないほどリアルでした…それを何体も作るのは凄い…これって、少年像の事?」
「他に何体なんて数えるような立体作品、今回はないし」
「変なの。だってアレ、フォトスポットに一体あるだけでしょ?しかも髪の毛って…全部木彫りなのにさ」
【美術館 完】
▼ 2014.08.19(Tue) 悪夢
【大学生編 06 悪夢】
[2014年8月19日(火)]
――そういえば、「あの人」と出会う前にも、一度だけ不思議な体験をした事があったな。
それは高3の秋だった。受験直前の時期だというのに、央弥は無関係の他人のいざこざに巻き込まれたことがあった。
ーーー
脳みその容量のうち半分は聞き流しつつ、半分は数式を解きながら口だけ相槌を打っていると突然スパンと頭を叩かれた。
「ねえ、だから聞いてよ!おかしいと思わない!?」
「へーへー、んじゃ別れろよ」
「そんな簡単な話じゃないし!」
「何て言えば満足だてめーは!」
その頃、央弥は仲の良い友達だった一人の女子、リサにしょっちゅう束縛の激しめな他校の彼氏について相談をされていた。
「あたしは、慎ちゃんの事ほんとに好きだし、それもいっつも言ってるのに、これ以上どうすればいいの!?」
「そりゃ信用がねえんだろ」
「落ち込んでる人間によくそんな事を言う!」
「落ち込んでる割には元気だな」
しばらくスマホを触りながらブスくれていたかと思うと、カバンを持って立ち上がる。
「駅まで迎えに来てくれるって。ほら、優しいんだよ…」
「そうだな。んじゃ多少は束縛されても文句言うな」
アンタにはもう相談しない!とキレて帰って行ったが、どうせまたグチりに来るのは見えている。
前はもう少し相手になってやっていたのだが、央弥はここ数日、妙な悪夢に悩まされていたので眠さと睡眠不足によるストレスで返事も態度も0点クオリティだった。
夜はよく眠れず、放課後は友人のグチを聞かされるという地獄のような日がしばらく続いたが、なんとかやり過ごして冬の入り口が見え始めた頃の事…。
「はあ?別れた?なんで」
「大喧嘩した」
酷く落ち込んでいるその様子に、さすがの央弥もそれ以上は踏み込めなかったが、まあ普段の様子からして上手くはいかないだろうとは正直なところ思っていた。
「まあなんだ、どんまい」
「アンタほんとに冷たい!」
「あんだけグチられてたらなぁ。スッキリして良かったんじゃん、次の彼氏でも探せよ」
「そんなすぐ次とか思える問題じゃないから!」
そういうもんか?と央弥は首をかしげる。
「あんたは人を好きになったりしないから分かんないよ!この冷徹人間!」
「散々人のこと相談役にしといてお前の方がさっきからひでぇからな!?言っとくけど!」
あんまりな扱いに央弥は傷ついたが、傷心中のリサはそれどころではない。
――その夜、"また"変な夢を見た。その夢はいつも同じ内容だ。
リサと央弥が恋人同士になっている夢。手を繋いで、デートをして、別れ際にキスをする。
二人はたしかに仲が良いが、そういう感情はお互いに無いと言い切れる。
男女間に友情は築き得ないとよく言われるが、この二人に関しては周りの友人たちからも「お前たちは珍しい例だ」と言われるほどだった。
それなのに、こんな夢を見るのは何なのか。嫌悪感のような、罪悪感のような、スッキリしない気持ちで目覚めも最悪だ。
「んだよチクショー…」
まだ夜明け前の部屋で目覚めて、誰にともなく悪態をつきながら体を起こすと真横に誰かが立っているのに気付いた。
「あ?」
その頃の央弥は実家暮らしだったので、弟が寝ぼけて入って来たのかと思ったがどうやら様子がおかしい。
「誰だてめぇ」
暗くて顔はよく見えないが、ひょろりと背の高い痩せ型の男だ。
弟の智紀(ともき)も背は高いが、サッカー部で体格がもっと良い。それに、意外と潔癖な所がある央弥が家族でさえ自分の部屋に入れたがらないのをよく知っているので、寝ぼけたとしても部屋に来るはずはなかった。
「おいこら」
とにかく電気を点けると、男は生気のない青白い肌をして無表情のまま央弥をじっと見つめている。
「…誰だまじで?」
いっそ怒る気すら削がれて、純粋な疑問で問うたが当然答えるはずもない。
――ああ、生きてる人間じゃないんだな。
なんとなくそう感じた央弥は気にしても仕方ない、俺にはどうにも出来ない。とあっさり諦めてトイレに行った。
部屋に戻って来てもまだ男は部屋に立ち尽くしたまま、首だけを動かして央弥の一挙手一投足を見つめてくる。
「なんだよ。俺、そういう趣味はねえんだけど」
央弥はそう呟いてから自分の発言がおかしくて、くつくつと笑いながら部屋の電気を消すと再び眠りについた。
だから、その時の奇妙な既視感についてすぐに思い出せなかったのはあの特殊な状況で出会ったせいもあっただろう。
「もっかい見せて」
向けられた画面に映る男は間違いなく、昨晩、部屋に立ち尽くしていたあいつと同じ顔だった。
「お前の彼氏、俺のこと知ってんの?」
「誤解されたくないから言うわけないし!」
「でも多分、どっかで聞いたか見たか、知ってるんじゃねえかな」
「どういうこと?」
「もっかいちゃんと話せ、浮気なんかしてないって」
どういうことかと再三聞かれたが、オカルトな現象を全く信じていなかった央弥は自分でもそれがどういう事なのかよく分からず、とにかく喧嘩しないで話してみろと言い聞かせてその日は帰った。
ーーー
それから、あの奇妙な悪夢に悩まされることは無かったし、あの男も二度と枕元に立つことは無かった。
辰真と出会うまで、説明のつかない現象と出くわしたのは後にも先にもあれだけだ。そして、その現象は落ち着いたかに思われたが、二人の出会いによってまた動き出すのだった。
【悪夢 完】
▼ 2016.03 某日 合わせ鏡
【未来の話:合わせ鏡】
[2016年3月某日]
「おっ、辰真さん、見てこれ」
「あ?」
外は雨なので行く所も無く目的も無いままにぶらついていたショッピングモール内で、唐突に立ち止まった連れに愛想のカケラもない返事を返す。
「こういうの、なんかすげえ久しぶりに見た。合わせ鏡になってんのここ」
「ホラ、いっぱい俺がいる!」と無邪気に笑うそいつのカバンの紐を乱暴に掴んだ。
「そんなもん見るな」
「え、ああいうのもダメな感じ?」
悪気など一切無さそうな様子にため息で返す。
「お前は、そろそろ危ない事に自ら首を突っ込むようなマネをやめろ。それとも構って欲しくてやってんのか?一刻も早く卒業しないとまじでダサいぞ、そういうのは」
「危ない事ってそんな大袈裟な」
興味を持つことが一番危ないのだと何度も言っているのに聞いてくれそうもない。
「…心配なんだよ」
素直に聞いて欲しければ素直に伝えるべきだな…と思いそう言葉にすると、突然早歩きでエレベーターへと向かったかと思えば下行きの呼び出しボタンを押した。
「な、なんだ?わざわざエレベーターなんか…」
やってきたエレベーターに乗り込み、扉が閉じるなりぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
「ちょっ…お、おい!」
「あんま可愛いこと言われたら、我慢できなくなるから、カンベンして」
「……おま、恥ずかしいやつ…」
と言いつつ、内心では悪い気もしない。
しかしその背に腕を回しかけた俺はエレベーターの壁に貼り付けられた鏡に映り込んだ予期せぬ"同乗者"の姿に情けない悲鳴を上げるのだった。
【合わせ鏡 完】
ストーカー
▼ 2014.10.15(Wed) 無言電話
【大学生編 07 無言電話】
[2014年10月15日(水)]
――まただ。
苛立ちまぎれに舌打ちをして、ため息をつきながらスマホの画面を消す。ここが人でごった返す帰宅ラッシュ時の駅のホームでなければ、いい加減にしろと怒鳴っている所だ。
しかしどうにも、そう出来ないのは周りに人がいるから……だけでもない。辰真は画面に表示された名前を見て、その人物に会話アプリでメッセージを送る。
『電話、何の用だった?』
そう、電話。無言電話だ。
『電話ですか?した覚えありませんけど、もしかして勝手にかけちゃったのかな、すみません!』
返事を打っていると連続でメッセージが送られて来た。
『絵画展、明日までですよ!』
『そっかわかった、気にしないで』
電話に関する会話の返事を送った後、絵画展についてメッセージを打つ。
『絵画展、行ってきたよ。見た。少年の絵』
その後もしばらくやり取りをして、適当な所で切り上げてホームに滑り込んできた電車に乗った。
先月くらいから、時々無言電話がかかってくるようになった。非通知は拒否する設定にしてあるし、辰真は店の予約など、知らない番号から掛かってくる可能性がある時以外は登録していない番号からの電話にも応じないタイプだ。
つまり相手は電話帳に名前のある人物ということになる。その相手は友人であったり、家族であったりと毎回違う。その度にこうしてメッセンジャーで何の用かと尋ねてみるも、全員「かけた覚えは無い」と言うのだ。
いよいよこっちのスマホが変なのかと思ったが、そんな壊れ方など聞いたことがない。ちょっとした事だが、忘れた頃にまた無言電話が掛かってくるので辰真にとってはなかなかのストレスになっていた。
「葛西さーん」
別に仲良くなどなりたくもないが、この恐れ知らずの後輩は辰真のどこがそんなに気に入ったのか、視界に入れば寄ってくる。
ニコニコと名前を呼んでこんな風に寄って来られるとさすがの辰真もどうにも毒気を抜かれてしまって、最近は行動を共にすることも珍しくなくなっていた。
「お昼食べた?食堂行こ」
「今から行く所だけど、いつから俺とお前は当然のように一緒にメシを食う仲になったよ」
そう言いつつ拒み切れもせずに結局、今日も並んで歩く。そんな時にポケットが密かに震えた。
「あ、悪い電話だ」
って、何でこいつに断る必要がある…と思いつつもどうぞと促されてスマホを手に取る。
「はい」
相手は同じゼミの先輩だった。
「あ、それなら、はい、その棚の3段目に…あ、そうですそうです」
通話を切った後にデータを移動させた事を伝えておけば良かったなと辰真が思った瞬間、再び同じ先輩から着信が入ったので何も疑わずに出た。
「先輩ちょうど良かった、さっき伝え忘れた事があって…レポート関係のデータなんですけど、デスクトップの」
そこまで話して、ふと違和感に気付いて言葉を止める。向こうからは何の返事もなかった。
「…先輩?もしもし」
辰真の様子が変わったのを央弥はすぐに感じ取って近くに寄って来た。他に類を見ないレベルの怖いもの知らずが目の前にいるせいか、無意識下ではあるがいつもより少し気が大きくなった辰真は苛立ちを通話口に向けた。
「いい加減にしろよ!」
そして乱暴にスマホをポケットにねじこむ。
「え、何、先輩じゃなかったの?」
「…無言電話だ。最近多いんだ」
その様子でただのイタズラでは無いのだろうと勘付いた央弥は、ちょっと見せて、と手を差し出す。躊躇する辰真だったが、この大柄な男は困るほどに目力が強い。
「いいから見せて」
「わかったから睨むな」
「この機種触ったコトねえんだけど、えーっと」
「おい、そこは触るなよ、カメラだから」
「はいはい、見せられない画像の100や200驚かねえよ」
「そんなにあるわけねえだろ!」
着信履歴ならこれだ。と横から手を伸ばして辰真が画面を操作する。先ほどの先輩からの着信が一番上にあり、続く名前は先輩後輩やら母、兄、未登録の番号も時々挟まっている。法則性は無く、時間帯もバラバラ。
「このうちのどれが無言だったわけ?」
「全部は覚えてないけど…」
と言いかけた瞬間、また着信が入った。画面には"母"と出ている。
「俺が出てみていい?」
「……ああ」
「もしもし」
返事を聞くか聞かないかくらいでもう応答してる央弥に少しだけ苦笑いする。
「もしもーし?おーい」
これは、無言電話だ。改めて認識すると不気味さが襲って来てゾッとした。全く知らない番号ならともかく、どうして知り合いからこんな電話が掛かってくるのか。
「おいてめぇ!!なんか言えこら!!」
わざとヤカラのように凄んでいるのだろう。周囲の人々が驚いた顔で通り過ぎるほどの迫力だが顔は冷静なまま、チラリと横目で辰真の反応を伺いながら央弥は大声を張り上げたりしている。
「…ダメだこりゃ。無反応」
「切ってくれ」
こうして央弥のファーストコンタクトは失敗に終わった。
とにかく食堂に来て、辰真はピラフセットを、央弥はカレーライス大盛りを食べつつ話す。結局仲良く一緒のランチタイムになってしまったわけだが、意外と抜けた所のある辰真は気付いていない。
「そういやさ、電話帳は?」
「ああ、電話番号の確認か?いや、そういえばしてないな…」
最近のやり取りはアプリ派も増えてきてそもそも電話番号を登録しておく事自体が減ったこともあり、スマホ内の電話帳を触るコトなんかほとんど無い辰真は、そんな初歩的な確認をすっかり忘れていた。
「見せて」
名前順で一番最初に出てきたゼミの同期、青木のプロフィールを開くと電話番号が2つ登録されていた。
「なんで2つ?どっちもケー番だし」
「ケー番て…さあ、覚えてないけど、2台持ちとか」
「あれ」
央弥はそう言ったきり、しばらく勝手に辰真のスマホをいじり続けた。
「なんだよ」
「一緒だ」
「あ?」
向けられた画面にはまたしても電話番号が2つ。そして片方は…。
「な、この番号、全部の電話帳に登録されてるんだけど、覚えある?」
「…ない、登録した覚えもない」
気味の悪さに青ざめている辰真を横目に、全ての電話帳データを勝手に消す。
「あ、おい」
「いいっしょ別に。今時ほとんど会話アプリで電話も済ましちまうんだからさ。また必要な分だけ新しく登録していきなよ」
「……まあそれでいいよ」
んで、この番号は着拒な!とそれも勝手に登録してからようやく央弥はスマホを返した。
「あんま気にすんなって!多分もう大丈夫だから!」
今はその根拠のない大丈夫が非常にありがたく感じる辰真だった。
【無言電話 完】
▼ 2014.10.20 Mon レンズ越しに見る
内容
▼ 2016.04 某日 映画館
内容
▼ 2014.11.06(Thu) ストーカー
【大学生編 09 ストーカー】
[2014年11月6日(木)]
「なあ、高峰ってK高だっけ?」
「そうだけど」
辰真のカメラに見覚えのある男の顔を見て、央弥は大学の友人に聞き込みをしていた。
「なんかさ、ひょろっと背の高い、根暗そうな奴いた?」
「なんだよそのフワッとした情報」
「図書委員で、帰宅部で…シンって名前だったハズ、いやシンイチとかかもしんねーけど」
半年ほど前、毎日のように聞かされていた名前や情報を思い出して絞り出す。
「それ深津じゃね?深津シンヤ」
「ああ、すんげー思い出した!この世の中のイケメンは全員敵みたいな奴な!」
「イケメンってか高身長?」
「とにかく少しでもカッコいい要素のある人間な」
「そんなの、無い方が少ないけどな」
その極端そうな性格にピンときた央弥は身を乗り出した。
「どういう事?」
「なんか、高2の終わりくらいに他校にすげぇ可愛い彼女が出来たんだよな。普通それで調子に乗る奴が多いと思うんだけど、あいつは不安で堪んなくなったみたいで」
「俺も思い出してきた。2年の時同じクラスだった」
――聞いた話をまとめたらこういう事だった。
深津 シンヤは特に目立つ所のない真面目で大人しい学生だったが、ある時、他校に可愛い彼女が出来たと噂が立ち、その話はジワジワとクラスに広まった。
弄られるような広まり方では無かったが、クラス全員が「他校に彼女がいるらしい」と知る頃には深津は「皆が自分の彼女を狙っている」と思い込み、すっかり疑心暗鬼の塊になり…。
彼女のタイプである、「背が高くて」「男らしくて」「明るい性格」の「顔立ちの整った」男…という要素のうち、どれかひとつでも当てはまる全ての人間を何の根拠もなく激しく憎む状態になっていたらしい。
……それであの束縛か、と呆れながら央弥はメッセンジャーアプリを立ち上げてリサの名前を探した。最近はあまり連絡を取ったりはしていなかったが、元気にしているだろうか。
「…なんで俺の名前を知ってる?」
央弥はふと、小さな声でそう呟いた。
3週間ほど前か、辰真にかかってきた無言電話に出た時だ。辰真には言わなかったが、電話の向こうから聞こえてきたのは本当は静寂では無かった。
『東丸央弥、東丸央弥、東丸央弥、東丸央弥』
不明瞭ではあったが、確実にそう繰り返していた。その時はなんのことやら、とピンと来なかったが、先週のカメラ事件の時にその姿を見て一気に全てが繋がった。
まだ恨んでいるのだ。おそらく、高3のあの時から今までずっと奴は央弥を恨んでいたのだ。しかし鈍感すぎる央弥はそれに一切気付かなかったわけだが、辰真との出会いで状況が変わった。
辰真は周囲にまで影響を及ぼすほどの霊感体質で、特に央弥とは波長が合うのか、反対に央弥からの影響も受けてしまうのだろう。無意識にその恨みを感じ取ってしまい、引き寄せてしまった。それはもはや本人たちにも無自覚のうちに。
怯えて、小さくなって、震えて、取り乱していた辰真の姿を思い出して舌打ちをする。
「関係ない葛西さんにまで迷惑かけてんじゃねーよ」
そうしてリサのメッセンジャーを開き、久々だというのに一切の躊躇もなく電話の発信ボタンを押した。しばらくの後、呼び出し音が途切れ、懐かしい声がする。
『もしもーし?久しぶりじゃん!どうしたの?』
「最近どうしてんのかなって思ったから」
『んー、元気だよ!もうすぐ引っ越す!』
「引っ越し?」
『そ、彼氏と同棲するの!』
「彼氏?」
『大学で出会った人!』
久しぶりという事もあってついつい話が盛り上がってしまったが、今の彼氏と幸せだと言う友人に元カレの話で水をさすことは出来ない。
『んで、何かあったんじゃないの?』
「いやホントになんでもねーから、声聞けて良かった」
『変なの!また電話しよーね!ばいばい!』
リサに奴の連絡先が聞ければ早かったが、そうしないと決めたからには諦めるしかない。央弥はその後も友人を辿りに辿って、友人の友人の友人という他人中の他人にまで行きつき、なんとか深津を呼び出すことに成功した。
交友関係の広さと無茶を聞いてもらえる人柄は大抵のことを可能にしてくれるものだ。例えば、2つも学年が上で学部もゼミも何ひとつ知らない辰真の名前さえ数日で聞き出せたくらいには。
「まじありがとう!持つべきものは友!」
「いいってそういうの」
果たして待ち合わせの場所に行くと、はじめましてだとは思えないほど見知った男がそこにいた。大学近くのカフェを指定してみたものの、まったりとお茶でもしながら話そうという雰囲気では到底ない。
央弥は席にはつかず立ったままその男に声をかけた。
「おう、待たせた」
「お前が時間にルーズな事は知っている」
「はあ?」
「まさかお前から呼び出してくるとは思ってもいなかったがな」
周りに人もいるというのに、出会い頭から非常に喧嘩腰である。まだたった二言交わしただけだが、その語気の強さに隣の席に座っていた学生は不穏さを感じとり、さっさと退散してしまったほどだ。
「どういう事?何言ってんの?」
「飲んだ次の日は平気で講義をサボり、周りの女子に不必要に愛想を振りまいてはその気にさせ、そのくせ部屋には家族さえ入れないほどの人嫌いのくせに」
「お前さぁ、そういうの…ストーカーって言うんだぜ」
見られていたのか。生活を。さすがの央弥も生きた人間のおかしな所業には少し背筋が冷えた。
「お前なんかのせいでリサと俺は…お前がリサを誑かしたせいで…」
「ちげーよ!俺とあいつは友達!別れたのはアンタがあいつを信じてやれなかったからだろ!」
ガタッ、と音を立てて深津が立ち上がり、不穏な会話を察していた周囲の視線が集中する。まさかな、と思っていたが100%の力で左頬を殴られて央弥は派手に転んだ。
「おま…暴力はやめとけ!?」
「とりあえず落ち着け」と深津の腕を押さえつけて、周りの客やスタッフに謝ってから央弥はとにかく店を出ようと深津に提案した。口の中が切れて血の味がする。
「ほら、ここじゃ迷惑だから」
頭に血が上っている深津は抑えられても尚、央弥を蹴ったり逃げようともがいたりと暴れている。カフェのスタッフは女性しかおらず、央弥も深津も高身長なのでおろおろと怯えているばかりだ。
「わかったから、な!まず店は出よう!」
「バカにするな!!」
思い切り太ももを蹴られ、痛みに手が緩みかけた瞬間に誰かが深津を後ろから捕まえてくれた。
「東丸!大丈夫か」
「えっ、葛西さん?何やってんの!?危ないって!」
「そっち押さえろ。とにかく出るぞ」
二人がかりで深津を押さえつけて引きずるようになんとか店から出ると、三人はごちゃごちゃと揉めながら公園のベンチにやってきた。
「離せ!!」
「わかったわかった」
ベンチに座らせて「落ち着いて話そう」「落ち着け」と央弥が繰り返すと段々冷静さを取り戻した深津はため息をついた。
「…で、何を話すんだよ」
「お前さ、俺が人嫌いだって知ってんのに、なんでリサの浮気相手だって決めつけんの?」
「……」
「俺のせいにして、怒りをぶつけたいだけだろ。それはわかるからストーカー行為についてはもういいよ。ただ…」
「おい東丸」
「え」
横から辰真に話の腰を折られてパッと振り返ると腕に何かが落ちた。
「お前大丈夫か、鼻血が」
「うわっ、時間差で来た!」
ティッシュとか持ってねえ、と慌てて手で押さえるがすぐに手が真っ赤になってしまう。実は血が苦手な央弥は少しドキリとしたが、状況が状況で自身も興奮状態のせいか、不思議と平気だった。
「これ、汚してもいいから使え」
使用後で悪いけど、と辰真はタオルを鞄から出した。
「まじでごめん、ありがと…」
央弥の態度は普段と変わらずケロッとしているが、その頬は痛々しく腫れている。
「とにかく!アンタ生き霊飛ばしてるって気付いてる?」
「はあ?何?」
「めっちゃ迷惑してるから!主にこの人が!」
「なんで。誰だよこの人」
央弥の説明に最初はにわかには信じがたいといった風の深津だったが、直接話をすると央弥の裏表のない性格に触れて、毒気を抜かれてしまったようだった。
「んじゃ、なんか気に食わねー事あったら直接言ってこいよ!」
「もう会う事は無いから」
「だといいけどな!」
振り返る事なく立ち去った深津の細長い背中を見送ってから辰真を振り返る。
「葛西さんありがと、ビックリした。まじ助かったし」
怪我してない?と聞かれて辰真は頷く。
「いくらお前だとはいえ、あんな本気で殴られてたらな…」
「別に痛くは無かったけど」
「鼻血は止まったか」
「あ、うん、このタオルごめん」
「いい、適当に捨てろ」
辰真はパッと時計を見やると慌てたようにカバンを持ち直した。
「じゃあ」
「え、何か用事だった?ホントごめん」
「よせ、らしくない」
早足で駅の方に歩いて行った辰真に「逆に俺らしいってどんな感じ?」とJPOPの歌詞のような投げかけをしたが返事は無かった。
【ストーカー 完】
▼ 2014.12.07(Sun) ドライブ
【大学生編10 ドライブ】
[2014年12月7日(日)]
ふと目を覚ますとめちゃくちゃ騒がしい音楽が爆音で鳴ってて思わず「は?うっせ」と声が漏れたが、それすらもかき消されるほどの音量でズンズンと低音がハラに響いて不快になった。
何してんだっけ、とぼやける頭で思い出す。大学内で仲のいいメンツの一人である直樹が免許を取ったので、急遽ドライブに行こうという話になって…。
「え、ちょ、まじでうるせーって!!」
「央弥が起きたよー」
「お前飲み過ぎな、1時間くらい爆睡」
「音楽うるさいから!止めろって!」
「今は央弥が一番うるさいんですけど」
「なあ心霊スポット行こうぜ」
「酔った頭に響くんだよ!止めろ!」
「この辺りそんなのある?」
深夜2時だというのに、ほろ酔いの若者たちは各々が好きな事を好きなタイミングで喋るので収集が付かない。
「もう帰ろうぜ…」
「んだよ。なんか最近、央弥ノリ悪くね?」
「彼女でもできたんじゃないの?」
「ありえないっしょ」
「あっ、ほらココどう?この道このままもうちょい行ったら霊園あるって」
「んじゃナビして」
「おいおい、俺の車呪われたらどうしてくれんの?お前らだけ楽しみすぎな!俺は飲めねーのに!」
「直樹が免許取った自慢してくるからドライブに付き合ってあげてんじゃん」
中身のない会話に央弥はうんざりしてまた目を閉じる。
「あー俺寝るから」
「墓場まで何分?」
「20分くらいだって」
肩を揺すられて目を覚ますといつの間にか少し丘を登ったような場所の駐車場に来ていた。深夜の街を見下ろして、ドライブに来たという事をようやく実感する。こういうのは悪くない。
「…いいな。免許あったら」
「おーい行くぞ!」
「入り口こっちだって」
スマホのライトで足元を照らしながらワイワイと歩いて行くと案外、駐車場からすぐに霊園の門が見えてきた。
「閉まってる」
「まあそうだろ」
「どっかから入れないかな」
「さすがに入るのはちょっと怖いんだけど、もうここで十分じゃない?」
俺は仲間たちのそんな会話を聞き流しながら、ぼんやりと門の向こうに整然と並ぶ墓石を眺めていた。
「…ん」
その時ふと何かが気になったが、後ろから話しかけられて振り返る。
「なあ央弥!お前アレ届く?」
門を登るから監視カメラの向きを変えろ、と指を差されるがさすがに俺がジャンプしても届きそうにはない。
「ムリ、あれは高すぎるって」
「ほらね!これで十分ホラースポットに来た感じあるし、もー帰ろ!」
「つまんねー」
まだギャアギャア騒いでいる友人たちを尻目に、再び門に向き直った。
――やっぱり、いるよな。
すぐそこだ。門の向こう側、手を伸ばせば届く距離にそれはいる。さっきは遠くの墓石に寄り添うように立っていた影が、すぐそこまで来ていた。いつのまに移動したのか。こういうヤツに時間や距離は大した問題ではないのか?
しかし誰も気が付いていないようだ。
「なあ、誰か"コレ"見える?」
"ソレ"を指差して、皆に聞いてみた。
「これって何?何ちょっと怖い事言わないでよ!」
「何もねーけど、何かあるか?」
「酔ってんじゃねーの央弥、ちょっと怖いからそういうのいいって」
「怖い思いをしたくて来たんじゃねーのかよ」
やっぱり見えないのか。葛西さんと関わるようになって、霊感が移った…とかある?そんなにめちゃくちゃ一緒にいるわけでもないけど、確かにこの空間でコレが見えてんのはどうやら俺だけみたいだな。
少し前までは誰よりも鈍感だったっつーのにな。
「…いや、見間違いだったかな、ごめん」
振り返るとソレは門の間から手らしきものを伸ばして、俺の腕に絡みついてた。
「……そろそろ帰るか」
「どしたん?さっきから央弥なんか変だけど」
「もー眠いの俺は!」
駐車場の方に歩き始めると、絡みついていた影はスルスルと解けて霊園の中に溶けるように消えていった。あの門はあの影にとって、越えられない一線の象徴なんだろう。
帰りの道すがら、車の挙動が変になり、降りてみるとボンネットに無数の手形がついていた……なんて事もなく、日が昇り始める頃には運転している直樹とすっかり目が覚めてしまった俺だけが起きてくだらない話で盛り上がっていた。
「なあ、さっきの墓場で何か見た?」
「んー」
「言えよ」
「ガキくらいのデカさの影」
「…まじで?」
「最初は奥の墓の近くに立ってたんだけど、俺らが喋ってたらいつの間にか目の前に来てた」
その様子を思わず想像したのか、直樹は平静を装っていたがハンドルを握る手に少し力が篭った。
「それでお前、平気な顔してたわけ?」
「まあ別に何もされなかったし…あ、いや」
「なんだよ」
「腕にしがみつかれたな、ついては来なかったけど」
「おい、おい、本当か?見えてないだけで連れてきてねえだろうな!」
「大丈夫だって」
大体、ついてきたからって何なの?と尋ねると直樹はもどかしそうに言った。
「怖いじゃん!」
「だから何が」
「そこにいるのが!」
「んん…何?うるさいんだけど」
明るくなり始めている空をぼーっと眺めながら睡眠不足の頭で俺はひとり納得していた。
――そっか、そこにいるのが怖いのか。
何かされるからとかじゃなくて、ただただ、いるはずのないものがそこにいるってのは…それだけで"怖い"になるって事だ。
葛西さんの今までの反応にも全部納得がいく。
――じゃああの人はこれからもずっと怖い思いをするしかないんだろうか。
なんて事も考えたけど、やがて眠気に襲われていつの間にか意識は途絶えていた。
【ドライブ 完】
▼ 2016.05 某日 郵便受け
【未来の話:郵便受け】
※少し流血注意
[2016年5月某日]
最近、仕事で疲れてる辰真さんの為に晩ご飯を作っておくのが日課になってる。今日は俺自身の気分転換も兼ねて、ちょっと時間のかかる料理を作ってみた。
よし、あとは粗熱が取れたら冷蔵庫に入れて…。
「…ん?」
カタリと玄関の方で物音がした気がして顔を上げる。
「辰真さん?おかえり?」
妙に早いな、と思いつつ玄関に続く廊下の扉を開けてみたが誰もいない。気のせいだったか。
扉を閉めて戻ろうとするとカサッと紙が擦れるような音がした。再び玄関を振り返ると、扉に付いてる郵便受けの口が開いていて、誰かの目が覗いていた。
「…誰?」
「入れて入れて」
「無理」
「いいなぁいいなぁ」
どこからついて来たのか。今日はそんな変な道を通った覚えはないというのに。郵便受けはマンションの入り口に新しいものが設置されていて、この扉にくっついているタイプは今はもうただの飾りになっている。
隙間から手を入れようとしているそいつを無視して、郵便受けに入れられた手紙を手に取った。宛名も無ければ、差出人の名前もない。十中八九こいつが入れたんだろう。念のため捨てる前に中を確認しとくけど。
こんなモン、辰真さんが見つけて怖がらせてしまう前に処分だ。のり付けが甘めなので封筒の口をそのまま開こうと隙間に指を差し込んだ。
「いって!」
何が起こったのか理解するよりも先に、右手の指先に走った鋭い痛みに手紙を取り落とす。しまった、まんまとしてやられた。カミソリの刃が仕掛けられていたようだ。
こういう時に慎重さのカケラも無い自分を反省しても時すでに遅し。深く切れた人差し指からボタボタと血が流れ落ちる。
「あ、っと…」
ふらっと目眩がして膝をついた。
「笑ってんじゃねぇし…くそっ」
頭から、指先から、足から、血の気が引いていく。
「はぁ…あー大丈夫。大丈夫」
壁に頭を預けて深呼吸を繰り返す。心臓がドクドクとうるさい。
デカい体をしてるくせに、俺は血が苦手だった。こんな小さい怪我で腰が抜けるなんて情けない。イタズラが成功して満足したのか、ひとしきり笑ったあと変な奴の気配は無くなった。
その時、チャリチャリと聴き慣れた鍵の音が遠くの方でして心底ホッとする。辰真さんが帰ってきた。取り繕う気もなくなって、玄関でへたり込んだままその人を待った。
「おわっ、びっくりした」
「おかえり」
「どうした、大丈夫か?央弥?」
辰真さんは座り込んでいる俺を見るなり、靴も脱がずに心配して駆け込んできてくれた。
「おい、顔が真っ青だぞ」
「うん…」
俺に目線を合わせるようにしゃがんだその肩にもたれこむ。ようやく深く息が吸えた気がして、力が抜けた。
「おま、血が…なんだこれ、封筒?」
「触らないほうがいいよ。俺が後で片付けるから」
落ちてる封筒を拾おうとしたその手を止めさせる。
「…手当てしてやるからちょっと待て」
「うん」
辰真さんは何も言わずに俺の頭を肩に乗せたまま優しく撫でてくれて、空いてる手で器用に後ろ手に靴を脱いだ。
「立てるか?」
「うん…ごめん」
肩を借りてフラフラとベッドに腰掛ける。ティッシュや消毒液を棚から出しながら辰真さんは不思議そうに聞いてきた。
「お前、前は血平気そうにしてなかったか?」
「基本大丈夫だよ。人並みだと思う…グロ画像とかも平気だし…あーでも、血ってか刃物が苦手なのかも」
「料理するのに?」
「包丁はちょっと怖いけど、今から使うって思って使ってるし、毎日だから慣れてる」
ちなみに実は包丁よりピーラーの方が怖くて使えない。
あとは普段大丈夫なモノでも怖いと感じてしまったらダメだ。割れたガラスとか、それこそカミソリとか。不安なスイッチが入ってしまうと普段は平気なレベルのモノも一切無理になる。
今回はそれが予想外の所から来たから大ダメージだった。
「横になるか?」
「はは、俺そんなにひどい顔してる?」
「こんな時に無理して笑うな」
「もう大丈夫だよ」
辰真さんは俺の前にしゃがんで手を出した。大人しくその手に怪我をした右手を乗せる。もう傷口の血は固まっていた。
ーーー
央弥の指先は氷のように冷たい。平気だと本人は言っているが、指先も顔も、血の気を失って白く、吐く息も小刻みに震えている。
まさかあの怖いもの知らずのこいつにこんなに苦手なものがあるとは、想像もしていなかった。まあ刃物なんて、それこそ包丁を除けば普段そんなに触る機会もない。ハサミくらいか…。いや俺はハサミも滅多に使わないな、そういえば。
髭剃りも今は電気シェーバーは安全で便利だし。
「傷に触るぞ」
乾いた血を濡らしたティッシュで拭き取ると痛々しい切り傷が露わになった。結構ザックリいったんだな。他人の傷を目の前で見ると俺までクラリと気が遠くなりそうになる。
なるべく無感情で消毒液に手を伸ばそうとした時。
「あ、ま…まって」
「央弥?おっ…と」
グラリと東丸の体が揺らいだので慌てて膝立ちになってデカい体を下から支えた。息が浅い。
「バカ、傷を見たのか」
「はっ…はっ…」
「深呼吸しろ。ほら、そんな痛くないだろ」
大丈夫大丈夫、痛くないと唱える。グイッと押し上げるように体を起こさせて、そのまま仰向けにベッドに寝転がらせてやると左腕でしがみつかれた。
「消毒するから、ちょっと離せ」
体を離すと央弥の目にはうっすらと涙が溜まっていた。その目で見つめられて不覚にも何かが胸元にグッと詰まるような感じがしてしまう。
ま…まさか弱っているこいつを可愛いと感じる日が来るとは。別に恋人を可愛いと思うことは悪い事では無いのだが、これじゃ加虐趣味のようだ。まさかそんな…と、俺は咳払いで自分を誤魔化した。
【郵便受け 完】
坂道
▼ 2015.01.20(Tue) ドッペルゲンガー
【大学生編 11 ドッペルゲンガー】
[2015年1月20日(火)]
仲間たちと馬鹿騒ぎした翌日は午前の講義には出ない事にしている。決して寝坊して出られないのではない。これは自分で決めたスケジュールだからセーフだ。だって、人生には息抜きって必要だから。
…というわけで"予定通り"午後から大学にやって来た央弥は廊下の先に辰真の背中を見つけ、後を追いかけた。
この頃は話しかけても邪険に扱われる事は減り、それに対していつもどこかからかうような接し方だった央弥の態度も後輩らしいそれへと変化し、お互いに無自覚なまま、ふたりはいつの間にか単なる仲の良い先輩後輩の様相となっていた。
「葛西さん」
呼びかけてみるが聞こえなかったのか、辰真は立ち止まる事なく角を曲がって行ってしまったので央弥も追いかけて曲がる。
「おーい、葛西さんってば」
しかしその先には辰真の姿はなく、思わず首をひねった。
「あれ?」
隠れるような場所も無い、長く続く廊下だ。
「…俺、夢でも見た?」
しかしそういった事は一度や二度ではなく、それから数日間ほぼ毎日、どこかでその背中を見ては見失う日々が続いた。
「気味の悪い事を言うな」
今度こそようやく捕まえたその本人にその出来事を話すと苦々しい顔をされる。
「だから見たんだもんよ、さっきだって」
「2時間くらい前?講義中だし、俺はそっちの廊下には用なんて無い」
じゃあな、と立ち去りかける背中を慌てて呼び止めた。
「ちょい待ち!」
「なんだ」
「なんか気のせいって思えねぇんだよ、実際アンタ顔色悪いし…なぁ、大丈夫?」
「はぁ…大丈夫って何がだ」
「わ、わかんないけどさ…」
わざとらしくため息をついたりして、不機嫌そうな辰真にそれ以上は追及できず、央弥はしょんぼりと肩を落とす。
本当に純粋に心配しただけなのに、怖がらせるつもりでからかっていると勘違いされ怒った顔で睨まれるとさすがの央弥も寂しくもなる。
「でかい体してそんな顔すんな、課題が大変なんだ…。別にお前が何かしたとかじゃないけど、今はこんな態度しか取る余裕ないから。絡まないでくれ」
「…うん。わかった」
その様子にさすがに罪悪感を感じた辰真はそうフォローを入れたが、央弥は傷ついたように落ち込んで踵を返す。
「お、おい」
その様子に今度は慌てて辰真が呼び止めようとしたが、央弥は止まる事なく立ち去ってしまった。
「…ちっ」
こんなのは八つ当たりだ。年上なのに、かっこ悪い。辰真はそう自己嫌悪して歩き出した。
ーーー
そんな気まずい出来事のすぐ後に、また別の場所でその背中を見かけた時は央弥は「またか」ぐらいにしか思わなかった。
「…葛西さん」
それでも、話しかけてしまう。もしかしたら本物かもしれないから。
本物だったらなんだというのか。央弥自身もそれはわからなかったが、辰真を見かけると声をかけずにはいられないのだ。絡むなと言われたばかりだというのに。
しかし、本物の辰真はそう言いつつも本気で無視をしたりはしない事を知っている。
「かさ…、っ!?」
どうせ振り返らない。そう思っていた央弥は思わず息を飲んだ。
振り返った辰真の顔面が半分抉れていたからだ。
「葛西さん!!!」
講義が終わり、ゾロゾロと部屋を出ていく人波をかき分けるようにして室内に飛び込んできたガタイの良い後輩が誤魔化しようもない大声で自分の名前を呼んだりするので、呼ばれた張本人は慌てて立ち上がった。
「おい、静かにしろ」
「葛西さんアンタ本当に大丈夫なのかよ!!」
「こんな所で大声を出すな、行くぞ」
何をそんなに慌てているのか、普通でない様子にとにかく落ち着けと言い聞かせて広場に出て来た。
「で?いったい何だ今度は」
ついさっき俺たちは喧嘩したんだと思ってたけど?と呆れたように言いながら前を歩く辰真の肩を央弥が乱暴に掴む。
「おっ…」
勢いよく振り向かされて転びそうになったが、何か言うより先に今度は両手で顔を掴まれて無理やり上を向かされた。
「な、何…」
央弥は何も答えずにただじっと見つめてくる。
「…コレ、どうしたの」
そしてその指が辰真の右目の下に触れた。そこにはうっすらと切れた傷痕がある。
「は…?」
それは本人でさえすっかり忘れていたレベルの傷で、言われてしばらく考えて、ようやく何のことか理解した。
「あ、ああ…小さい頃に、交通事故で」
――そうだ。どうして忘れていたんだ。この事故がキッカケで俺は…。
「気をつけて、ホントに」
「は?」
「何かあったら連絡ちょーだい!てかマジでメッセンジャー交換しよ!!」
いつもの強引さに3割増しくらいで押されて、辰真は意味がわからんと思いながらも連絡先を交換してしまったのだった。
【ドッペルゲンガー 完】
▼ 2015.02.05(Thu) 痛み
【大学生編12 痛み】
[2015年2月5日(木)]
「央弥、今日の飲み行く?」
「おー…」
呼びかけられてスマホからふと顔を上げ窓の方を何の気無しにチラリと見ると、先輩の姿が見えた。
「わり、後で連絡する」
そう言い残すと、小走りで階段を降りて中庭を目指す。
「葛西さんっ」
「お、どうした」
「上から見えたから、挨拶しに来た」
「お前って律儀な」
別にゼミやサークルの先輩ってわけでもないのに、と笑う辰真。
「アンタいっつも1人だよね」
「人付き合いが下手だからな」
「下手っていうか、嫌いなんでしょ」
「まあ好きではない」
そんな事を言いながらも、当然のように隣に並んで歩く事を容認してくれる事が少しだけ嬉しくなる。どこに行くんだろう?と思いながらついて歩く。
「皆がお前みたいにグイグイ来てくれたらいいんだけど」
「葛西さんって、拒絶の壁がすっげーもん」
「そうか?無意識だな」
珍しくポンポンと繋がる会話は嬉しいが、どこか違和感を覚えた。
「なんか機嫌いい?」
「ああ、ここんとこ妙に快眠でな」
気分良さそうに笑っているのはいいが、どうもその言葉とは裏腹に目の下にはクマがあるし、心なしかやつれて見える。
「…あ、そう」
この前のドッペルゲンガー事件もあるし、釈然としない気持ちで会話を切り上げた。
「んじゃ、俺こっちだから…あの、葛西さん」
「ん?」
「連絡してね。何かあったら」
「はは、だから何かってなんだよ」
こんな会話で笑うなんてあり得ない。絶対にいつもの辰真ではない。そう思いつつも踏み込みすぎて距離を測られるとまずいので、央弥は大人しく次の講義へ向かった。
ーーー
翌日、辰真は原因不明の怠さで起き上がれずにいた。
熱も無いし、吐き気も寒気もない。それなのにベッドに根が張ったように体が重く、どんなに頑張っても起き上がれない。
頭の中は「なんで」「どうして」でいっぱいだ。起きなければ。大学に行かなければ。そう焦れば焦るほど泥の中に沈んでいくように手足は重くなっていく。
スマホが鳴っていたが、画面を確認する気にもなれずに寝転がったまま、永遠に思考だけが続く。こんなんじゃだめだ。大学に行かないと。誰かから着信がきてる、ゼミの人かも、体が重い、どうして…。
「う…」
せめて眠れたらどんなに楽か。しかし意識は嫌というほどハッキリしたまま、ただただ、起き上がることができない。
「うう…っ」
言いようのない不安感が襲ってきて、心臓がざわつく。このままじゃ、俺はどうなってしまうんだ?
起き上がれず、講義をサボって、連絡も無視して、元から友達なんか少ないのに、とうとう誰からも見捨てられて…。
ーーー
その日、3日ぶりにその姿を見かけた央弥は思わず二度見するくらいに驚いた。前回会った時とは比べものにならないほど、あきらかに辰真がやつれていたからだ。
「ちょ…待った待った!」
「ん?東丸か、どした?」
央弥の驚きとは裏腹に機嫌の良さそうな笑顔と口調で返事をする辰真。
「どしたも何も、今にも倒れそうじゃん!」
「大袈裟だな」
そう言っておかしそうにからからと笑っているが、その足元は頼りなくふらついている。それに、どうやら無自覚のようだが首に引っ掻いたような傷があった。
「…ねー葛西さん、今日、そっちで宅飲みしたい」
「は?うちでか?急だな、いいけど」
前回と同じく妙にご機嫌な辰真は、普段なら絶対に承諾するはずもない提案をあっさりと受け入れた。
まだ二度目の訪問だが、前回とは明らかに部屋の様子が違う事に鈍感な央弥もすぐに気が付いた。
電気をつけても妙に薄暗い。それに、いる。寝室の扉の前に黒い影がモヤモヤと。
「…葛西さん、塩ある?」
「はあ?」
「ちょっと借りる」
「待てって、おい?」
勝手にズカズカと上がり込み、キッチンの戸棚にあった食塩を乱暴に寝室の扉に撒き散らす。
「おい、何してんだこら!」
「いいから清め塩も!早く!どうせ持ってるっしょ!」
反射的に止めようと大声を出した辰真だったが、反対に央弥の剣幕に圧されて驚いたように黙り込んだ。普段は犬のように人懐こくて忘れそうになるが、ガタイの良い央弥が凄むと本当に怖いのだ。
「大声出してごめん 。お清め塩、持って来て」
「…お、おう」
まだ状況を把握しきっていないまま、辰真はとにかく引き出しから清め塩を持って来た。
「やっぱ持ってんだ」
「塩で清めるとか気休めだと思ってるけど…念のため常備してる」
「そういうので良いんだよ、きっと」
思い込みの力は大切だ。もう影は見えなくなったが、寝室の前から部屋全体にパラパラとそれを撒いてみる。こんな使い方で良いのかさえ分からないが、部屋が明るくなったような気がした。
「…ふう、こんな感じか?盛り塩とかどうすんだ?」
その時、背後でゴンッという重い音がして振り返ると辰真が仰向けに倒れていた。
「ちょっ、葛西さん!?」
頭を強く打ったのではないかと心配したが、まさに憑物が取れたという表情で気持ち良さそうに眠っている様子にほっと胸を撫で下ろす。
「ビビったぁ…」
翌朝、ベッドの中で覚醒しきらない頭のまま目を開いた辰真はいつのまに帰って来たんだったかと考えて、しばらくしてから央弥の事を思い出した。
――そうだ、あいつが急に家に来たいと言い出して、それから…。
記憶をなくすほど呑んだのか?一切思い出せない。その割には別に二日酔いでも無いが。
「…おま、そんな所で寝てたのか」
「ん、おはよー」
大きな体をソファー型の座椅子から完全にはみ出させている状態で寝ていた央弥は眠そうに目を擦った。
「悪いな。体痛くなってないか?」
「だいじょぶ、てかアンタこそ、もう大丈夫?」
「ああ、記憶をなくすほど呑んだらしいが…全く平気だ」
「呑ん…?」
その言葉に央弥は首を傾げかけたが、慌てて話を合わせる事にした。この部屋に良くないモノが現れたなど、覚えていないなら知る必要もない。
「まあ二日酔いになってないなら良かったじゃん」
「そうだな」
【痛み 完】
▼ 2016.06 某日 オンラインゲーム
【未来の話:オンラインゲーム】
[2016年6月某日]
「たーつまさん、さっきからやってるの何それ」
「オンラインゲーム」
「面白いの?」
「そこそこ」
自分から聞いておきながら興味があるのかないのか、ふうん、と気の抜けた反応で返して央弥はソファに沈み込んだ。
普段あまりスマホを触らない辰真がこの頃、永遠に手元ばかり気にして自分に構ってくれないことを少なからず不満に思っていたのだが、どうも最近テレビでもCMが打たれている人気ゲームを辰真もプレイし始めたらしい。
「それ、俺の友達もみーんなやってる」
「なんとなく始めたんだけど、意外とハマって」
央弥はしばらく辰真の画面を覗いていたが、数分で飽きたように冷蔵庫へ向かった。
「なんか食べる?」
「お、そんな時間か。作ろう」
辰真はスマホを机に置いて手伝おうと立ち上がる。央弥から食材を受け取りつつ口を開いた。
「そういえば…大したことじゃないけど」
「うん?」
今プレイしているゲームはいわゆるMMORPGで、同時にマップ上にたくさんのプレイヤーが集まれるものだった。コメントを入力すれば、自らのアバターの頭上に吹き出しが出て他のプレイヤーとコミュニケーションを取ることもできる。
一般的なRPGと基本は同じで、クエストをクリアして素材を集め、より強い武器を手に入れて、より強い敵に挑む。そのクエストを受注するのに、ゲーム内のとある建物に行く必要がある…のだが、そこでいつも決まったプレイヤーに話しかけられると言うのだ。
「ゲーム内のフレンド?」
「いや、それなら別に変な話ではないんだけど」
基本的に一人で遊ぶのが好きな辰真は必要がない限りはソロプレイをしている。
「だから知り合いはいないし…」
そのプレイヤーは建物の入り口に立っているので全てのプレイヤーが前を通ることになるのだが、話しかけてくるのは辰真にだけらしい。
「といっても、こんにちは辰さん。とだけな」
「結構本名に近いプレイヤー名でやってるんだね」
「まずいかな」
「別に大丈夫だとは思うけど、知らない人に呼ばれるとちょっと気味悪いね」
「そうなんだよな」
少し悩んで、辰真は設定画面を開いた。
「まだ始めて日も浅いし、アカウント作り直す」
「確かに。データ消すのが惜しくならないうちにやり直すのがいいかもね」
次は本名とは擦りもしない名前で…。
辰真はその時ふと目に入ったのがテレビのパン特集だったので、『カレーパン』というふざけた名前で新たにプレイを始めた。
ーーー
「…辰真さん、そういや最近あのゲームやってないの?」
「ああ、やめた」
「せっかくアカウントまで変えたのに」
「それなんだけどな」
辰真は複雑そうな顔をして続ける。
「チュートリアルが終わって、いよいよクエストを受けようと思ってあの場所を通りがかったら、呼ばれたんだ」
――こんにちは辰さん。
「……って」
【オンラインゲーム 完】
▼ 2015.04.04(Sat) 隙間
【大学生編 13 隙間】
[2015年4月4日(土)]
最近、メッセンジャーがうるさい。
車の教習所で知り合った別の大学の女子大生が事あるごとに連絡してくるからだ。合コンしようだの、ふたりでご飯行こうだの。
その気のない返事をしていても、一向にめげない。長く既読スルーをしているのだが、そろそろブロックすべきだな。適当にごまかして連絡先なんか交換しなけりゃ良かった。と後悔する。
「央弥、なんか通知来てるよ」
「いいんだよ」
「また央弥の見た目につられた女か」
いつもの仲良しメンバーで一人暮らしの奴の部屋に集まってグダグダする。いつもどおりの光景だ。
「どう、教習所」
「通うのマジ面倒。合宿のやつにすれば良かった」
「でもちゃっかり出会ってんじゃん」
「やーらしー」
「お前ら俺が喜んでるように見えんの」
「腹減ったなー」
「直樹まだかよ」
「やっぱ5人分の買い出しは大変だべ」
「んだんだ」
「でも言い出しっぺはあいつだからな」
買い出し係を決める為に大富豪を遊んだまま床に散らかされているトランプを誰も片付けようともせず、もうすぐ大荷物で戻ってくるであろう友人を迎えるために机を綺麗にしておくこともなく、安直に選んだ鍋をする為の鍋を用意することもなく、全員がだらだらと好き勝手に過ごしている。
そうしているとガタガタと物音がして、部屋の扉が開けられて両手に袋を抱えた直樹が帰ってきた。
「おい!場所あけとけって言っただろ!」
「おかえりー」
「俺のハイチュウは?」
「ライム味とか無かったし、イチゴで我慢しろよ」
「せめて青りんごだろ!頭おかしいんじゃねえの!?」
「なんでそこまで言われなきゃならねぇんだよ」
じゃあ白菜でも切るか、と袋を漁っていた央弥は机に置いたままだったスマホの画面に通知が表示されてふと覗き込んだ。
3つは|件《くだん》の女子大生から。そして新しい1つは辰真からだった。
「あっ」
パッとスマホを手に取って通知画面で内容を確認する。
「…わり、帰るわ」
「デートだ」
「やらしー」
「たらしー」
「デートじゃねぇし、やらしくないし、たらしてない。材料費いくらよ?」
払わなくていいよ、と言われたが少しだけ置いて出て来た。駅に向かって歩きながら電話をする。
「…あ、もしもし葛西さん?今どこ」
腕時計で時間を確認しながら歩く。もうすぐ20時になろうとしていた。
「いいって、とりあえず行くから」
通話を切った後、電車の時間を調べる為に乗り換えアプリを立ち上げる。ここから1駅なので、大体5分ほどで合流できそうだ。
ーーー
鍋食い損ねたなあ、腹が減ったな、などと考えながら揺られているとうっかり降りるはずの駅を過ぎそうになって、央弥は慌てて電車から飛び降りた。
「あれ、央弥?俺今から洋平の部屋行くのに」
「ちょっと用で抜けて来た。鍋もう始まってると思う」
「用ってこんな時間に?もう教授とか帰ってんじゃね」
「別に大学に用ってわけじゃないんだ」
「他にこの駅に何があるよ。まあ詳しくは聞かないけど」
自分の乗ってきた路線とは逆の電車に乗って行った友人を見送り改札へ向かう。ここは大学の最寄駅だった。
「東丸」
「ごめん待たせて」
「いや、早かったよ…というか俺こそ急で悪い」
「いいって」
何かあったら連絡してって言ったのは俺だし、と笑って央弥は辰真と肩を並べた。
「んで、どうする?一緒に行こうか?」
央弥の提案に微妙な顔で返して辰真は黙り込んだ。
「ま、今日のところは時間も時間だし、明るい時間に一緒に行くよ」
「悪い…どうしようもないのに呼んだりして」
「なんで?良かったよ呼んでくれて。今日はウチ泊まりなって」
思わぬ発言に辰真は何も反応できずにいたが、央弥はさっさと歩き出してしまう。
「ほら、俺んちこっから5駅だからちょい遠いけど」
「いや…だってお前」
「ん?」
いつも通りの人当たりの良い笑顔で振り向かれて、なにか言いかけた口を閉じる。
「…あ、もしかして聞いてた?この前のアイツとの会話」
その通りだ。"アイツ"…深津とのカフェでの会話を辰真は聞いていた。
「結構すぐ近くの席に座ってたから、聞こえて」
「気にしなくていいよ」
「でもお前、家族でさえ部屋に入れたくないって」
「葛西さんならいいよ」
「そん…っ」
「いいからいいから」
ほら、と腕を掴まれて辰真は急な他人との接触に思わずあからさまに振り解いてしまった。
「わ…わかった。じゃあ甘えさせてもらう…」
央弥の部屋は駅から歩いて10分ほどの単身向けマンションの一室だった。散らかってはいないが、日用品なんかは机の上に出しっぱなしで、ほどよく生活感がある。
「手とか洗う?こっち」
「おじゃまします…」
靴を脱いで央弥について行くと、新しそうで小綺麗な洗面所があった。
「いい部屋だな」
「都心部からは離れるし、大学からもちょっと遠いけど、予算内でこのクオリティだから即決した」
適当にしてるように言われたので床に腰を下ろすとキッチンの方から「飯作るよ」と声をかけられてさすがに慌てる。
「いや、いい!むしろ俺がやるし」
「料理できんの?」
「ち、炒飯くらいなら…」
「はは、男の料理って感じだね」
玄関の近くにある小さなキッチンに立つと大柄な央弥は余計に大きく見える。振り返った手には大根の上半分。そんなものが冷蔵庫に備蓄されているということは、普段から料理をしているということだろう。それもおそらく、和食を。
「苦手なものある?」
「…生の卵」
「おっけ」
背後から聞こえて来る生活音に辰真はウトウトしてきて、ついまぶたを閉じてしまった。
――東丸は、俺の事が好きなのかもしれない。
パッと目が覚めると目の前の机にいくつか皿が置かれていた。
「悪い、手伝う…」
「あ、起きちゃった?目を開けたら机の上に料理がっていう状況にしたかったのに」
「そういうのいらないから」
「じゃあこれ運んで」
渡された小鉢からはいい香りがする。
「これ何だ?」
「なんだろ?適当に切ってレンジしてポン酢かけただけ」
火使わない料理ってまじで楽だよ、と笑って央弥は大きな鍋の蓋を開けた。
「んで、これは煮付け」
「今作ったのか?」
「いやいや、昨日の残りでごめんだけど、美味くできてるよ」
予定外だから半分こね、と笑って央弥は皿に魚を盛り付けた。
「米はいる?パックのになるけど」
「じゃあもらう、明日買って返すから」
「いいってば。んじゃ温めて持ってくからもうちょい待ってね」
誰かの家で誰かの作った料理を食べるなんて辰真には初めてのことすぎて反応に困ったが、煮付けは美味しかった。
シャワーから出るとテレビを観ていた央弥が交代で部屋を出て行った。辰真はまだ少し遠慮がちに腰を下ろして、ようやくホッと一息つく。
「……」
大学から帰ると部屋に"何か"が居て、咄嗟に思い出したのは「何かあったら連絡して」という央弥の言葉。
今日は妙に疲れてやれやれと思いながら扉を開けたら、隙間から覗いていたソレと目が合ったのだ。外で何か怖い事があっても、家に帰れば、家だけは、守られている場所で無ければならない。それなのに。
とにかくパニックだった。予期せぬ場所で、油断しきった所に飛び込んできた恐怖。 ――明日、日が昇って、それでもまだ何かが部屋にいたらどうしよう。
「…はぁ…」
しかし飯はうまかったがここの居心地は悪い。央弥の理由のわからない優しさが不気味だった。夢うつつで考えた事を必死で頭から追い出す。
そんなわけない。そんなわけ…。
「葛西さん、だいじょぶ?」
すっかり考え込んでいた辰真は急に声をかけられてビクリと体を震わせた。
「ごめん、驚かせた」
「いや、早いな」
「そ?」
央弥は缶チューハイを片手に戻って来て、またテレビの前に座った。
「おい、お前は一年だろ」
「アンタも飲む?」
「髪がまだ濡れてるぞ」
「これ飲んだら乾かすからぁ」
子供みたいな言い分に少し笑って辰真は横になった。
「もう寝る。この毛布借りていいのか?」
「ベッド使いなよ」
「いい、お前床で寝るつもりだろ」
「先輩を床で寝かせらんないよ」
「いいから。遠慮して眠れないから」
終わりのない押し問答になりそうだったので央弥は拗ねたように諦めた。
【隙間 完】
▼ 2015.04.05(Sun) 金縛り
【大学生編 14 金縛り】 [2015年4月5日(日)] 床で寝たせいか、慣れない場所のせいか、央弥と同じ空間で眠ることに緊張を感じているのか…辰真は金縛りにあってしまった。 意識だけが覚醒して、体がうまく動かせない。心霊現象なんかじゃない。それは分かっているのに、辰真はこの感覚が苦手だった。 ――東丸は俺の事が好きなのかもしれない。 「…う、ぅ…」 無理に動こうとしても辛いだけだ。それなのに、起きているとはいえ寝ぼけている頭は動けない事に動揺して、なんとか意思を体に伝えようとする。 「は…っ」 「…葛西さん?」 苦しそうな声に目を覚ました央弥は体を起こして暗い部屋に目を凝らした。 「う…ぅ…」 うなされているようだ。夢でも見ているのか。起こした方がいいのか悩んでいると、辰真の手がピクリと動いた。 「…とま、る…」 「葛西さん」 央弥はさっと立ち上がって、辰真の隣に膝をついて声をかけてみる。 「葛西さん、大丈夫」 「は…」 苦しそうな様子に思わずその手を取った。 「大丈夫だよ」 何度かそう繰り返していると、握っている手に力が籠められて少し安心したように表情が和らいだ。 「と、まる…」 「うん、いるよ」 うっすらと目が開かれて、寝ぼけているような瞳と目が合う。 「大丈夫?」 「……」 聞きながら握っていた手の力を弱めると意外にも抵抗を感じたので、離さずにそのまま手の上に手を置いたまま様子を見てみる。 「…お前がいると、安心する…」 央弥はそれだけ言ってまた寝てしまった辰真を抱きしめたいという妙な衝動に駆られたが、慌てて手を離した。 翌朝、アラームの音で目を覚ました辰真は一瞬見覚えのない景色に驚いたが、すぐに思い出した。 「東丸?」 隣のベッドには誰もいない。トイレにも、洗面所にも。 家主のいない部屋に置き去りにされるのは非常に心細いものだ。しかし央弥はすぐに帰って来た。その手にはコンビニの袋を持っている。 「あ、おきた?おはよ、朝はご飯食べる派?」 「ああ…悪かった、夜…起こして」 キッチンに袋を置いて、中から卵を取り出しながら苦笑いをして答える。 「覚えてんだ。適当に作るね」 「寝ぼけてたけど、夢かどうかはさすがにわかる」 ボウルを出して卵を割ろうとしていた央弥はピタリと手を止めて呟いた。 「じゃあ…俺がいると安心するって言ったのも、本心?」 「そ、れは…」 この妙な空気に焦って、辰真は目線を泳がせた。あからさまにうろたえる様子を見て央弥も慌てたように笑顔を作る。 「ごめんごめん、そんなマジにならなくても!嬉しかったからさ!頼ってくれて!」 夜、魘されている間に手に触れられた感触を思い出して辰真は途端に尻の座りが悪くなったが、また変なものと目が合うかもと思うと一人で部屋には戻れない。 「とりあえず食べよ!んで今日は俺なんにも用事ないし、夕方の車の教習まで暇だから…アンタは?部屋戻る?ついてくよ」 「俺は3時からバイトがあるから、それまでには一旦…帰りたい…」 とは言いつつ気が重そうな様子に困り顔で返して央弥は箸を手渡した。 「大丈夫だって!"安心剤"の俺もいることだし!」 「もういいからそれは…」 辰真はしまったな、と頭の中で何度も後悔した。 弱みを見せるべきじゃなかった。まさかこんな面倒な事になるとは。どうやら、央弥はあれから辰真の事がより一層気に入ってしまったらしい。元はといえば、それは恋愛というよりも確実に"好奇心"の分野だったはずだ。 辰真といると変なものが見える。おかしな体験ができる。普通の人間なら恐れたり、気味悪がる所を央弥は面白がって近づいて来た。 辰真も初めは鬱陶しかったそれが最近は頼もしくも感じるようになり、だんだんと心開いていった。そこまでは普通だと言えよう。いつから、歯車が狂ってしまったのか。 元々同性が恋愛対象になるタイプの人間なのか?それならそうと知らずに易々と家に上げたり、助けを求めたりした辰真が軽率だったと言えなくもない。しかし、イレギュラー的に"そう"なったのだとしたら、何故…としか言いようがない。 可愛らしさ、守りたくなる容姿、触れたくなる柔らかい髪や肌、何を取っても基本的に女性の方が良いに決まっている。…と、辰真は思う。 こちらは可愛らしさのかけらも無く、身長もそれなりにあってゴツゴツした体の普通の男だ。 「んじゃ、俺が先に入ろうか」 考え込んでいるうちに部屋に着いて、央弥はそう言いながら鍵を受け取り、扉を開けて中を覗き込んだ。 「うーん、とりあえず見える場所には何もいないよ」 扉を躊躇なく開いて央弥は部屋に入って行く。辰真もゆっくりと後を追うが、部屋の中に異変は無かった。 「…クローゼットの中とかも見ようか?」 「一応…」 「うん、何もいなさそう」 確認してみて、と言われて後ろから覗き込む。 「良かったね。ただの通りすがりだったんじゃない」 「通りすがりの霊ってなんだ」 「だって、ついて来たわけじゃなかったんしょ?通りすがりだよ」 「…まあ、良かった」 本気で引越しまで考えていたのだ。非常に助かった。央弥は見知ったように辰真が備蓄してあるお清め塩を持ってくると部屋全体に蒔いた。 「こうやって使うのかわかんねーけど…ま、気持ち気持ち」 「それ、よく見つけたな」 「え?あ…なんとなく、こういうとこにあんじゃねえかなって」 "あの時"の事を覚えていない辰真に、そのまま忘れさせておこうと思っていた央弥はしまったと慌てた。 しかし特に疑問に思ってなさそうな態度にホッとして、前も部屋全体に一応塩は蒔いたもののあくまで寝室を中心にしていたのだが、今度はきちんと玄関まで含めて部屋全体をしっかり守るようなイメージで蒔いておいた。 「バイト先どこ?近い?」 「あ、もう準備する…悪いな、こんな事に付き合わせて」 「気にしなくていいってば。ま、今度昼メシでも奢ってよ」 「そんな事で良いなら」 そう答えてから、こいつは俺との飯が目的か、と辰真は思ったが時すでに遅し。 「約束ね」 嬉しそうにはにかんで央弥は帰って行った。非常にまずい。気を持たせるような事はしないようにしないと。 【金縛り 完】
▼ 2017.08 某日 電車にて
【未来の話:電車にて】
[2017年8月某日]
つり革が揺れている。
辰真は自身の座る席の真横にぶら下がるつり革だけが不自然な動きをしている事に気付いてサッと目を伏せた。
平日の昼間、閑散とした車内にはポツポツとしか人はおらず、辰真はひとりでボックス席の通路側に、進行方向を向いて座っていた。
視界の右上に捉えたそのつり革は、まるで誰かが掴んでバランスを取ろうと頼っているかのように、突っ張って電車の揺れに反する動きをしている。
何かがいるのだろうか、そこに。
珍しく"ソレ"は見えない。だが絶対に気のせいではない。悪意のようなモノは感じないが、だからといって居心地の良いものではない。
辰真は見知らぬ誰かが目の前のつり革に捕まって、上半身を折り曲げるように屈ませ、自身の様子を観察している姿を想像してしまっていた。
――やめよう、考えすぎだ。
もうすぐ降りる駅に着いてしまう。
気味が悪いが、何者かが"いる"のであろうその空間を通って席を立たなければならない。
辰真は意を決して立ち上がった。なるべく心の平静を保ちつつ、窓の外の様子に意識を向けながらその空間へ足を踏み出す。
その瞬間、電車が大きく揺れてバランスを崩して、思わず反射的にそのつり革を掴んだ。
「っあ…」
心臓がヒヤリとした。すぐに手を離して、扉の前まで急ぎ足で移動する。その後は特に何も起きずに済んだが、無事に駅を出るまで生きた心地がしなかった。
「央弥、こっちだ」
待ち合わせていた相手が現れたので声をかけて呼び寄せる。怖いもの知らずのコイツの顔を見ると幾分か気持ちがホッとした。
「辰真さん、何飲んでんの?」
「ラテ」
「ふーん…俺も何か飲もっかな。それ飲み終わるまでまだ時間かかるよね?」
鞄を向かいの席に置きながら央弥はチラリと辰真を見て、財布を手に取ってからまた視線を寄越した。
「ところでどしたの、その腕」
「腕?」
「誰かの左手がぶら下がってるけど」
【電車にて 完】
▼ 2015.04.24(Fri) ブレーキ
【大学生編 15 ブレーキ】
[2015年4月24日(金)]
「葛西さんっ!!!」
世界がスローになって、東丸の悲痛な叫び声が遠くで聞こえた。
――ああ、どうして忘れていたのか。
「辰真!!」
あつい。
「辰真、しっかりして!!」
目が開かない。
「救急車!早く!」
手が、首が、背中が痛い。
――誰かが笑ってる。
ーーー
ピリッ、と右目の下が引きつった。
「っつ…」
そこには古い傷跡がある。右腕と、肩甲骨のあたりと、右耳の裏にも。以前、東丸にコレは何だと聞かれた傷跡だ。小さい頃に酷い怪我をしたのだ。
あれは長い坂道だった。車も多く、危ないから絶対にブレーキを握りしめてと母親に何度も何度も言い聞かされていた。
何故忘れていたのか。坂道を見ると未だに少し恐怖を覚えるというのに。
「葛西さん?なんか言った?」
「いや、まぶたが痙攣して」
「疲れてんじゃない?」
「かもな」
図書館の自習室で軽く首を揉んで肩を回した。昼時だからか妙に空いている。イヤホンでシャカシャカと音楽を聴きながら勉強している女子大生と、やってきて早々に寝てしまった院生らしき無精髭の男しかいない。
先日の約束通り昼飯をたかりにきた東丸に少し待てと言い聞かせて、俺は履歴書を書いているところだった。
「長所ね…」
「何書いてんのそれ?」
「履歴書の下書き。就活だよ」
「うわーっ、社会人になりたくない!」
「こら、うるさい」
「ねーはらへったんだけど」
「何が食べたいんだよ」
もういい、と履歴書を片付けて立ち上がる。人が少ないとはいえ、騒いで目をつけられると今後の利用に響く。リクエストは大学の裏にあるフレンチだった。
「フレンチ?予算は800円だからな」
「太っ腹じゃん」
学生向けメニューがあるんだよ。らくしょーらくしょー、と笑って歩く背中を追って歩く。
「ほら、これ使って!」
「誰のだよ」
指差された先にあるのは自転車。そしてその手には二本の鍵。
「友達の!昼飯行くって言って貸してもらった!」
「…あ、そ」
許可が取れてるならまあいい、と大人しく鍵を借りる。類は友を呼ぶというのか、少しサドルが高いと感じたが一応170後半はある俺にも小さなプライドがあり、ガキくさくサドルを下げるのは我慢してしまった。
そして案内された先にはこのために用意されたかのように長い坂道があった。そう、ちょうどあの時のような…。
「どしたの?」
急に減速した俺の異変にすぐに気が付いた東丸がすかさず声をかけてきたが、首を振って答える。この時に強がらずに降りて歩けば良かったのだ。
「なんでもな…」
そして坂に差し掛かった瞬間、まだ握ってもいない左ブレーキがバツンと音を立てて切れた。
「は?」
慌てて右を握りしめると後輪が持ち上がりかけたが、転回してしまうより前に右ブレーキのワイヤーもブツリと千切れて、自転車は坂を下り始めた。
「は…?うそだろ」
咄嗟に足をつこうにも爪先しか届かない。飛び降りればいいのに、俺は完全にパニック状態になっていた。そうしてたった数秒の間に自転車はトップスピードに達してしまったのだ。
「葛西さんっ!!飛び降りて!!」
後ろからそう言われても、猛スピードの自転車から飛び降りるなんて、体がすくんでしまって到底出来ない。
そうだ、あの時もそうだった。こんな風に突然ブレーキが切れて…赤信号の交差点に突っ込んだ。
ーーー
「てめぇ笑ってんじゃねえ!!ぶっ殺すぞ!!」
央弥はペダルに全体重をかけて辰真を追った。遠くで、耳元で、耳障りな笑い声が響いていた。
「葛西さんっ!!」
央弥の方がロードバイクで、スピードが乗りやすい。周りの確認など一切せず、辰真の背中しか見ていなかった。もうすぐ交差点に差し掛かる。信号は赤だ。
央弥は辰真の乗っている自転車の荷台を右手で掴んで力の限りブレーキを握りしめた。タイヤの回転は止まっているがガリガリと派手な音を立てながらスリップして進んで行く。
――ダメだ、止まれない。
央弥は咄嗟に辰真の腰辺りを捕まえて、左側に倒れ込むようにして転がり落ちた。受け身すら取れずに猛スピードで地面に転がって、何かにぶつかってようやく止まった。
「う…う」
派手に揺さぶられて上も下もわからない。自分が今、一体どうなっているのか。
「か、さい…さ…ん」
グラグラと揺れる視界のまま辰真を探す。顔を上げようとすると首が痛んだ。
「大丈夫ですか!?」「やば…」
「救急車!」「おい、聞こえるか!」
何やらそんな言葉で周りが騒がしい。
地面に手をついて立とうとしたが、上下感覚が狂っていてうまくいかない。視界が揺れ続けている。しかしその中になんとか辰真を見つけた。
「かさ…い、さん」
腕が痛い。首も、足も、全身がドクドクと脈打つように痛い。辰真は目を閉じて倒れている。その体はピクリとも動かない。
「かさいさんっ…」
なんとか近くまで来たが、央弥も限界だった。
「おねが…目ぇ、開けて…」
ーーー
ふ、と意識が浮上して目を開けると白い天井に緑のカーテンが見えた。清潔な匂いがする。どうやらここは病院のようだった。
「……」
「葛西さん!!」
「わっ」
耳元で大声が響いて体がビクッと跳ねる。
「良かった…!痛いとこある?喉乾いてない?」
「…大丈夫だ。お前こそ」
「俺は大丈夫!ただの打撲と脱臼!」
それから軽い脳震盪、と言って央弥は自身の頭を突いた。その頬には大きなガーゼが貼られていて、手も首も包帯だらけだが、怪我自体はそこまで酷くないらしい。
「本当にごめん…俺が昼飯なんか誘ったから、自転車を用意したりしたから…」
央弥の手が伸びて、辰真の左腕に触れた。右腕はガッチリと固定されている感覚があり、どうやら骨折したようだ。
「…死んじゃうかと思った」
「泣くなよ」
情けなく下がった眉、弱々しく震える睫毛。少しおかしくなって辰真は笑った。そんな辰真を見て、央弥は掴んだ左手に衝動的にキスをした。
「…な、おま、なに…」
「好き」
ドクッと心臓が鳴った。いけない、聞いてはいけない。
「好き…葛西さん」
バッと掴まれた手を振り解いて辰真は目線を逸らした。
「…帰れ」
その態度を見て、央弥は冷静になって我に帰り、小さく「ごめん、こんな時に」と謝ると病室を後にした。
【ブレーキ 完】
▼ 2015.05.26(Tue) 視えないもの 1/2
【大学生編 16 視えないもの】
[2015年5月26日(火)]
あの事故の後、お互いの親を介して央弥の家から辰真に治療費だけは払ったが、ふたりはしばらく顔は合わせていない。
「このマンガ続きねえの?」
「この前誰かに貸した」
「勝手に冷蔵庫開けていい?」
「いいよー」
またいつもの部屋に集まってグダグダと過ごす。
「…なぁ」
その時、座椅子でずっと黙ったまま目を瞑っていた央弥が唐突に口を開いて全員の視線が集まった。
「なんか良いバイト無いかなぁ…」
「だから俺のロードバイクは後でもいいから焦んなって。マジでやつれてんぞお前」
「俺はチャリ無いと困るけど、安いのでいいよ別に」
「てか親にも借金してんでしょ?病院代」
「いいよ、忙しい方が気が紛れるし…」
いつも飄々としている央弥らしくなく、落ち込んでいる様子に仲間たちは顔を見合わせる。
「教習所は?」
「行ってる、次仮免」
「大学とバイトと教習所は無理だって、お前も怪我してんだろ?」
「まじ何かしてないとヤバいんだって…」
「まさかとは思うけど、聞いていい?失恋でもした?」
「いや、俺も思ったけど、まさか…なあ?」
央弥が黙り込んで頭を抱えてしまったので空気が固まって静まり返った。
「…そう、なのかも…自覚ない…」
「あんま聞かない方がいい?」
「整理ついたら、相談する」
教習所行く、と言って央弥は立ち上がった。
「ま…まじで?」
「え、だれだれ?」
「わかんね、あいつ顔広いし」
「恋愛とかしないタイプだと思ってた…」
「うっわやっべ!なんかわかんねーけどショック!」
央弥のいなくなった部屋では大騒ぎが起こっていたが、当の本人はそんな事を知る由もなく。ただぼんやりと電車に乗り込むのだった。
どうして、好きだなどと口走ってしまったのか。考えるより先に言葉が出ていた。しかし、そのことを思い出すとまたムズムズとおかしな気分になってくる。
困らせたくないのに、言ってはいけないのに、何故かこんなただの言葉を…"好きだと言いたい"というこの欲はどこから湧いてくるのか。これが恋をするという事なのだろうか。
治療費のやり取りの後、メッセージの返事はないし、電話をしても出ない。大学でも見かけなくなって、謝ることも、弁解することも、説明することも、何も許してもらえない。
怪我の具合も、元気にしているのかも分からない。こんなにも気になる。関わりを断ちたくない。これが本当に恋だって言うなら、酷い負け戦だ。
央弥は力なくため息をひとつ溢して教習所の扉をくぐるのだった。
ーーー
辰真の目に幽霊らしきものが視えるようになったのは、あの事故がきっかけだった。
坂の下の交差点で乗用車と衝突して、子供だった辰真の体は5メートルほど宙を舞い、軽い体が幸いして命に別状は無かったが派手に切れた右目の下は3針縫った。
今回は央弥が助けてくれたから、転がっただけの怪我で済んだが、腕は折れた。こんな時期に利き手が使えないと非常に不便だ。
あれは辰真に憑いている霊なのかもしれない。もしかしたら子供の頃からずっと。
そうすると、むしろ巻き込まれたのは央弥の方なのだが、辰真が正直にそう伝えても治療費は払うの一点張り。もう、このまま全て無かったことにしたい。
あの告白も。
――いや、あれは果たして告白だったのだろうか。
なんだっていい、もう何も考えたくない。辰真は怪我で不便なこともあり実家でぼんやりと過ごしていた。
「辰真、ゴロゴロしてるなら買い物してきてよ」
「履歴書の内容考えてるんだよ」
「外の空気吸ったら良いのが浮かぶかもよ」
結局行けということだ。母に逆らえずに外に出るとスマホが着信で震えた。画面を確認してポケットに仕舞う。不本意ながら見慣れてしまった名前だ。連絡を取り続ける義理もない。
もう考えたくないんだ。第一、巻き込んで怪我をさせた上に金まで出させて…合わせる顔もない。
そうだ、これで何もかも元通り。出会う前に戻るだけ。このまま終わりにするのが良い。
……そう思っていたが、同じ場所に通っている上にあちらが意識的に辰真を探しているとなれば、顔を合わせないように避け続ける事は難しかった。
「葛西さん」
歩きスマホをしていると真横から声をかけられて慌てる。
「危ないよ、画面ばっか見てちゃ」
「…ああ」
「手、もう大丈夫?」
「ああ。手首はもうしばらく固定されてるけどな」
気まずくて目が合わせられない。しかし央弥の視線を横顔に痛いほどに感じて、ついに顔ごと逸らした。
「お前も、怪我しただろ…」
「俺は大丈夫」
会話が続かない。この空間に耐えられない。辰真が逃げ出そうとした瞬間、央弥が先手を打った。
「ビビらないでよ。一回ちゃんと話そう」
向き合う事を強要されなければならない関係でもない。たった一言、嫌だと言えば終わらせられるのだ。
辰真は勇気を振り絞って拒否しようとしたが、チラリと視線を向けると真っ直ぐに見据えられて、うやむやにさせる事は許されないと感じてしまった。
「わ、わかったから」
「あんま人がいない方がいいよね」
しかし央弥も到底、冷静とは言えない精神状態だった。こんな風に誰かに執着するのは初めての事なのだ。拒絶されたらどうしよう…そう思うと手が震えた。
「サークル棟の裏行こ。昼間は人いないし」
ぎこちない空気を漂わせたまま2人は無言で歩いた。
何から話すべきか、ぼろいベンチに辰真を座らせて、隣に座るのも 憚 られた央弥はその前に立ったまま、言葉を探し続けていた。
「……その、まずはごめん」
「それは、何に対して」
辰真はいつも通りの返しをしようとしたのだが、あからさまに冷たい返事になってしまって変な汗をかく。対する央弥もその一言で何か言う勇気が一気に削がれて、長い沈黙を誤魔化すようにズボンで掌の汗を拭った。
「ま、まずは怪我させた事…それから、勢いで変な事言っちゃった事」
「怪我に関しては…むしろ、本当は俺のせいだと思ってるんだけど」
「それは無い!マジでそれはっ…無いから」
央弥は慌てて辰真の言葉を否定すると覚悟を決めたようにじっとその目を見つめた。しかし辰真はこの期に及んでまだ目を逸らそうとする。
「聞いて、葛西さん」
「…聞いてるだろ」
「ちゃんと聞いて、こっち見て」
「なんだよ…。怖いよ、お前」
「なんでそんな怖いって思うわけ?見えてんのに」
――俺は俺の全てを見せた。言葉にしたのは初めてだったけど、今までにも態度で見せてきたつもりだ。
それは俺自身にさえ無自覚のうちに…だったけど。何も隠してないし、不安があればなんでも話す。後は、アンタがそれとどう向き合ってくれるつもりなのか、それだけ……。
「見えてるから怖いんだろ!」
辰真は薄々それを感じながらも、自分の中で答えが出せずにいた。だからそういう雰囲気にならないように逃げ続けて来たのだ。
なのに、それがこんなにも唐突に現実を叩きつけられて、無理やりに向き合わされて。本心では今すぐにでもここから逃げ出したい。
「見えてなかったら?」
「え…」
「見えてなくても、そこにあるんだろ?だったら俺は…」
すう、と息を吸って、央弥は弱々しく瞳を揺るがせた。
「見えないモンの方が、よっぽど怖いよ」
いつでも堂々としていて、何が現れても飄々としていて…。そんな央弥のこんな姿を初めて見る。その事に辰真は酷く動揺した。
――いや…隠してる姿、さっそくあるじゃねえか。
「アンタの心が、見えない事が…一番怖いよ」
今にも泣き出しそうな声にドキリとする。
――泣かないでくれ。そんな気持ちをぶつけられても、俺にはどうする事も…。
「アンタが好きなんだ」
「やめてくれ!!」
――知りたくない。聞きたくない。何も受け入れられない。
「アンタのそうやって知らないフリをする所は悪い癖だ、目を逸らしてたってどうしようもない、嫌なら嫌って言ってくれたらいい!」
「嫌じゃない!」
思わず口から出た言葉に辰真は自身でも驚いた。
「…嫌じゃ、無いから…困ってる」
好きか嫌いかしか無いのか?辰真は何度も言いかけたその言葉をどうにか飲み込んだ。
――分かってるんだ。そうじゃ無いってことは。
「答えが出せないならいくらでも待つよ。ただ、はぐらかさないで、目を逸らさないで欲しいって言ってるんだ」
「……わかってる」
考えるから、と言って辰真は立ち上がった。
「考える時間くらいくれてもいいだろ」
「うん、ありがとう」
それで十分、と笑って央弥は先に立ち去った。
【視えないもの 1】
▼ 2015.06.03(Wed) 視えないもの 2/2
【大学生編 16 視えないもの 2】
[2015年6月3日(水)]
――付き合うってなんだ。好きってなんだ。
その先には何がある?2人でいてどうなる?
辰真は答えのない自問自答を繰り返しては、あれから一体何日が経ってしまっただろうか…とカレンダーを確認して頭を抱える日々を送っていた。
――これじゃいけない。就活に響いたら事だ。
就活が落ち着くまでは考えられない。意を決してそうメッセージを送れば、素直に「分かった頑張って」と返事が来た。
央弥としても、辰真の人生の邪魔をするのは非常に不本意な事であった。別に返事を 急 きたいわけでは無い。
しかし忘れようとして忘れられるほど辰真は器用な人間でもなく、愚痴を溢してスッキリできるような友人もいない非社交的な人間だったので、モヤモヤとしたまま就活は少し難航した。
「…ダメだ。本当に」
「あんたまた珍しく帰って来たと思ったらうじうじしてばっかで。怪我はもういいの?」
「リハビリ通ってる」
家事をする元気すらなく、しばらく休学を決め込む事にして辰真は実家に戻っていた。平日の夕方、ただただ街を散策するだけのテレビ番組を見るともなく見る。
「まだ焦らなくていいんでしょ?」
「まあそうなんだけどさ」
「大体、何がしたいの?やりたい仕事決まってるの?」
「なんとなく…広告系で探してる…少数規模の会社で」
「アンタ人付き合い下手なんだから、あんまり人が少ないと逆に人間関係が蜜で難しいかもよ」
「うるさいなぁ…」
悩んでる時に更に悩むような事を言わないでほしい。でもそうか、そう考えると中規模の会社の方が良い事もあるんだろうな…。そんな時、スマホが震えた。
「…もしもし」
『もしもし!元気?どう、就活』
「あんまうまくいってない」
『んー、そっか…、あのさ』
少し悩むように唸ったあと、ドライブに行かないかと言われて思わず聞き返す。
『元々この電話もさ、免許取れたって報告しようと思って!もし煮詰まってんなら、気分転換しに行かない?』
実家にいると伝えれば、結構な距離だというのに央弥は当然のように地元の駅まで1時間ほどかけて辰真を迎えに来た。日は傾き始めているが、まだ辺りは明るい。
「急だったけど、大丈夫だった?」
「大丈夫」
「この辺り初めて来たけど、駅前とか結構きれいだね」
「ああ、最近開発されて」
親の物だというミニワゴンの助手席に乗り込むと他人の車の匂いがした。
「車酔いする人?」
「いや、しない」
「んじゃどこ行こっか」
「…そうだな…」
「適当に決めていい?」
「ああ」
何か考えがあるのだろうか。辰真は当然ながら友人とドライブを楽しむようなタイプでも無く、こんな時にパッと車で行きたい場所などひとつも思いつかない。
央弥は淡々とスマホの地図アプリでナビモードを設定すると、人工音声のガイドに合わせて車を発進させた。
どれくらい経ったのか、眠るつもりは無かったがぼんやりと意識が遠くなっていた事に気付く。
「…あ、悪い寝てたな」
「寝てていいよ、就活で疲れてるっしょ」
「そんな事もないな。だらだらしてるだけだ」
「別に体は動いてなくてもさ、あれこれ考えたり悩んだりして、気疲れするのってしんどいよ」
優しくそう話しながら前を見つめて運転する央弥はどこか大人びて見える。本当はその内心は慣れない運転で緊張しているのだが、周りからはそうは見えないものだ。
「まあでも、もうすぐ着くから」
その言葉に窓の外を見るが、暗くてよくわからない。
「人が集まる場所より静かな方が落ち着くかと思って」
央弥のようなパリピが行くドライブといえば一晩中ずっと明るいような場所に連れて行かれるものだとばかり思っていた辰真は拍子抜けした。
着いたよ、と声をかけられてドアの外に出ると山の中腹の休憩所のような場所だった。
「前に友達が連れて来てくれたんだけどさ、結構景色は良いし、でもこんな微妙な場所だから誰もいないし」
いいなと思って覚えてた。と笑う央弥。
運転で緊張していた手足を伸ばして深呼吸をする。この道の先には墓地があるわけだが、もちろんそれは黙っておいた。
辰真が長く手入れもされていなさそうな木製の柵に近寄ると、山の麓に小さな村の光が見えた。
「へえ、少し走るだけでこんなに静かな場所に来れるんだな」
「意外だよね」
まるで、とんだ田舎に来たような錯覚を覚える。
「…ねぇ、葛西さん」
「うん」
「今、就活とか大変で気持ちが弱ってるの知ってて、つけ込むみたいで嫌なんだけどさ」
隣に並んで景色を見ながら央弥は自分の頭を軽くくしゃくしゃとかき混ぜる。
「その…好きって、ただ言いたくなっちゃうんだ」
何か返すよりも先に「言いたいだけ!ごめん!」と謝られて、どう反応すればいいのか分からなくなった。
「困らせてごめんね」
「…俺は」
辰真は無意識に避け続けてずっと向き合ってこなかった"恋愛"というものにようやく正面からぶち当たってしまって、もの凄く考えた結果ひとつの答えに行き着いていた。
「人を好きに、ならないのかも」
人は人を好きになる、男は女を好きになる、女は男を好きになる。辰真もなんとなく漠然とそう思っていて、だから自分もいつか自然と誰か、女の子を好きになるのだと思っていた。
しかし、考えれば考えるほど、今まで恋をした事が無かったのだ。
「男とか女とか、そういう問題より先に」
辰真は自分を恋愛が出来ない人間なのではないかと分析していた。それを伝えれば落ち込むだろうかと心配していた予想に反して、央弥は驚いたような反応で返した。
「それって……俺もかも」
「はあ?」
「俺もそう!そう、だった!」
央弥は辰真とは違ってそんな自分に早くから気がついていた。小中高とモテ続けてきて、彼女のような存在が途切れる事の無い人生を歩んで来たが、一度も夢中になれるような事はなかった。
一緒にいて大事だと思うし、楽しいけど、それだけだった。彼女たちの求めるような自分ではいられなかった。それどころか、それに連なって起こるイザコザが面倒で、大学では先に自分から非恋愛体質である事を公言して過ごして来た。
そのおかげでこの半年ほどは恋愛という面倒事からずっと逃げ続けられて来ていたのだ。それでも告白されるような事は度々あったが…相手もその噂は聞いていたので断る事は容易かった。
――なのに。
「…だからまだ、自分でもわかんないんだ、よく」
こんな事なんか初めてで、央弥自身も困惑し続けている。
「葛西さんにだけは……ムズムズして、ソワソワして、口が勝手に好きだって言いたくなるんだ」
柵から体を離し辰真に向き直って、真っ直ぐに見つめる。辰真も、今度はその視線から逃げる事はせずに向き合った。
「体が勝手に抱きしめたいって動いちゃうんだよ」
そう言いながら手を伸ばされても、辰真は逃げなかった。恐る恐るといった風に央弥はその体を抱き寄せる。
「……だから、ごめん。どうしようもなくて…好き、好きって、そればっかりが溢れちゃう」
これが人を好きになるって事なのかな。そう呟く央弥に「わからん」と返して、抵抗もせずに抱きしめられている辰真は、でもこの腕の中にいると妙に安心して悪い気分ではないな。と思った。
ーーー
「…ねえ、誰の事も好きになれそうになくて、でも俺と今こうして一緒にいるのが嫌でないなら、とりあえず付き合ってみない?」
そろそろ帰ろうかとまた車に乗り込んで、運転しながら央弥は恐る恐るそう提案した。
「好きか分からないのに付き合う意味ってなんだ」
もっともな質問に少し悩んで、心の内を素直にそのまま言葉にしてみる。
「俺もまだよく分かんないんだけど、仲の良い先輩後輩とか、友達じゃ…なんか嫌なんだもん」
「特別な関係でありたいって事か?」
その言葉にピンと来て央弥はすぐに肯定した。
「そう、俺を葛西さんの特別にしてほしい」
「今でも十分お前はイレギュラーだぞ」
そう言って辰真は笑う。
「わかった。別にお前に好きだって言われる事自体は不思議と嫌な気もしないし、俺がその言葉に何かで返さなきゃいけないわけじゃないなら気も楽だ」
「うん、ただ一緒に居させてくれて、好きって言うのを許可してくれたらそれだけで嬉しい」
「変なやつだな」
「お互い恋愛初心者だから、とりあえずやってみようよ。そのうち何か見えてくるかも」
よくわからない言い分だが、辰真はやっぱり意外と悪い気がしないなと笑いながら承諾した。
【視えないもの 完】
▼ 2018.01 某日 駅のホーム
【未来の話:駅のホーム】
[2018年1月某日]
「っと…」
大学からの帰り道、唐突に足元がフラついて、央弥は思わず声を漏らした。ここは駅のホームだ。落ちたら冗談では済まない。
――またか。
実は、ホームの端に引き寄せられるような感覚になるのはこれが初めてではない。この駅にはまだホーム柵も設置されていないし、3度目くらいから警戒して、ホームの中央で待つようにしているが、それでもフラリと妙な目眩を感じる事がある。
普通、こういった場合は電車に飛び込まされそうなものだが、それは電車のタイミングとは関係ない。
そしてこの駅だけなのだ。ホームから落とされる、と考えると命に関わる大事件なハズ。しかしどうにも敵意や悪意を感じないのだ。
だから、ふとした瞬間につい引き寄せられてしまう。
「……」
――目的は、オレを傷つける事じゃない…?
そう思って、央弥は電車が来ないタイミングを見計らいつつホームの端まで歩いて来た。その間も、決して乱暴ではなく柔らかい感覚で導かれているのを感じる。
まるで小さな子供にでも手を引かれているかのようだ。
「…何かあんのか?この下に…」
「おい、馬鹿!!」
「ぅわっ!」
ホームから身を乗り出そうとした瞬間、後ろから腕を痛いくらいの力で引かれて転がった。
「何してんだ!!」
「いってぇ…た、辰真さん?」
「何考えてんだよっ…」
「いや、な…何って…そんな」
仕事帰りなのか、スーツ姿の辰真に殴られそうな勢いで怒鳴られてビックリする。周囲の人々の視線が痛い。
弁明しようとしたが、たしかにどう考えてもホームからフラフラと飛び降りようしたと思われて仕方がない事をしたなと央弥は口を閉じた。
「…ごめん、ありがと。心配しないで」
驚かせてしまったなと反省しつつ、立ち上がろうとした央弥は視界の端で何かが落ちるのを見た。
「あっ」
「ん?」
ガッと鈍い音がして、それはホーム下にまで落ちていってしまった。
「辰真さんのスマホが」
「あ?」
そう言われてズボンのポケットを漁った辰真は盛大にため息をつく。
「絶対に割れたな…」
「ごめん、弁償するから!駅員さん呼んでくる!」
「こちらですね、あと…」
これは違います…よね?と、辰真のスマホと一緒に駅員がホーム下から拾い上げたのは一体の人形だった。古いが、それほど汚れてはいない。
辰真は人形と目が合いかけて思わず後ずさったが、スッとその傍から手が伸びた。
「あー…俺の…ではないんですけど…」
心当たりならある。央弥は躊躇いなくそれを受け取り優しく抱いて、駅員に礼を告げその背中を見送った後、人形の供養について調べ始めるのであった。
【駅のホーム 完】
▼ 2015.11.02(Mon) 迷走 1/3
【大学生編 17 迷走】
[2015年11月2日(月)]
――笑い声が聞こえる。
"あの時"坂の上で聞いた、耳障りな笑い声だ。
姿さえ見えるなら一発ぶん殴ってやるのに。
「…ん」
笑い声が着信音に変わって、意識が浮上する。
――あ、この音は現実の電話だ。
「もしもし…」
寝ぼけながらスマホを手に取ると笑い声が聞こえた。だが、今度は耳障りじゃない。思わず央弥の頬が緩む。
「うん、うん、そう寝てた…え、ほんと?そっか…良かった」
時計を見るともうすぐ昼時だった。外は晴天の気持ちが良い休日だ。
「じゃあ早速だけど、どっか行かない?お祝いしようよ」
通話を終えるとすぐに立ち上がって、着ていく服を考えながら歯を磨いた。めでたいことに辰真の就職先が決まったらしい。
「葛西さん!」
駅の地下の待ち合わせ場所に着くと既に辰真は到着していた。
「ごめんお待たせ。何食べる?」
「ちょっと調べてた。ここどうかな」
開かれたスマホのページに表示されているカフェは央弥も前から気になっていた店の一つだった。
「あ!ここ良いらしいよ、行こ行こ」
こっち、と地下街を歩き出す央弥に続いて辰真も歩き出す。今まで人の集まる場所は苦手だったが、央弥と居れば人混みの中に奇妙な何かが見えても不思議と怖くなくなった。
「どしたの?」
「いや…行こう」
央弥は誰かと付き合うのは初めてではない。むしろそれなりにモテる人生を歩んで来て、恋人とのランチデートなど当然、経験済みである。
しかし思い出すと会いたくなって、それが無理ならせめて声だけでも聞きたくて……人生で初めてそんな風に思った相手とこうして並んで歩くのは全くの初体験で、まるで初心な中学生のように心臓がドキドキと高鳴っていた。
「…葛西さん」
「ん?」
無性に手を繋ぎたかったが、男同士という要素が気持ちに歯止めをかける。
「んー、なんでもない」
それに、こうして並んで歩くだけでも十二分に満ち足りるほど幸せを感じた。
ニコニコとご機嫌な央弥に、辰真もよく分からないが悪い気もしない。しかし妙な感覚がするのは何なのか。この違和感の正体がなかなか分からなかったが、地上に向かうエレベーターに乗り込んだ時にようやく気が付いた。
近いのだ。
「…お前、なんか今日は近くないか?」
別に狭いエレベーターでもない。十分に余裕があるというのに、央弥は辰真と肩が触れ合いそうな距離に立つのだ。
「え!まだ触ってもないのに、だめ!?」
「なんだよ触るって」
「えっ…えーと…」
手を繋ぐとか。とおそるおそる口にした央弥に対して、辰真は心底不思議そうにする。
「手を繋ぐ?俺とお前が?」
「だって、付き合ってるわけじゃん」
央弥の言葉に辰真は驚いたような顔をした。しかしその時エレベーターが目的階についたので、無意識のように足を踏み出しながら考え込む。
「そ……そう、なるのか」
その後を追いつつ央弥も一瞬だけ考え込んだ。
「ちょ、ちょちょちょ!ちょっと!なんだと思ってたわけ!?」
そして思わず大きな声が出たが仕方がない。こんなにも舞い上がっていたのが本当に自分だけだったと思い知らされて悲しくも恥ずかしくもなる。
「…なんだと…というか、何にも考えてなかった、本当に」
恥ずかしさで頭を抱えてしまった央弥にさすがに申し訳なくなったが、謝るのも違う気がして気まずさを誤魔化すように頰をかいた。
「あ…その、東丸」
「いいよ別に、いいんだけどさ」
謝らないで…と冗談まじりに涙を拭く。
「葛西さん、ちなみになんだけど」
打って変わって真面目な瞳で見つめられて、空気が変わったことに辰真は少しドキリとした。
「俺、下心も含めて葛西さんが好き…なんだけど…もしかして、それもわかってなかった?」
それも含めて、嫌ではないと思ってくれてる、と…思っていた。真剣に向き合ってくれていると思っていたのに。
「し、下心…」
「キスしたり、抱きしめたりしたいよ」
周りに人もいる場所でハッキリ言われて辰真は気まずそうに辺りを見回して声量を抑えた。
「い…一緒にいて、好きって言えるだけでいいとか言ってたじゃねえか」
「それも本心だけどさ…分かってないとは思ってないし!」
「わ、分かってたとしても、少なくとも今はそこまでは受け入れられないから」
「それは分かってる!受け入れられるかどうかじゃなくて、理解の話っしょ!俺の気持ち何だと思ってたわけ!!」
声が大きすぎる。通り過ぎる人々が喧嘩かと不安そうにこちらをチラ見してはそそくさと離れていく。しかし怒らせた手前、叱るような事は間違いなく状況を悪くするばかりだろうし、どうにも言いにくい。
「そんな怒ることか…?」
「…怒ってないよ、悲しいだけ」
「ごめん」
「謝んないでってば」
「……」
もうランチどころじゃない気分だが、無言のまま二人の足は店に向かう。結局、二人ともその日食べたイタリアンの味など微塵も覚えていないのだった。
【迷走 1 】
▼ 2015.11.03(Tue) 迷走 2/3
【大学生編 17 迷走 2】
[2015年11月3日(火祝)]
「…やらかした」
「どうした」
最近、浮いたり沈んだりと忙しそうな友人はどうやら、19にもなって初恋中らしい。
仲間たちはそんな央弥の成長を面白く思ったり寂しく思ったりしつつも応援している…が、やはり半分以上は面白がっている。
「就職祝いしよって話だったのに、気持ちが焦っちゃって…変な話して、拗ねたりして、困らせた。嫌われたかも。もう会ってくれないかも」
事の顛末はさっぱり分からないが、とにかく年上の恋人とのデート中に子供のように拗ねてしまった事を悔やんで落ち込んでいる、という事らしい。
「先週はずっとニコニコしてたのに、今度は地の底まで落ち込んで、なんか大変そうだな」
「央弥らしくないよな」
「…だから俺らしいって何だよ」
「そもそも央弥が誰かをまじで好きになった事も意外だし」
「それな、想像つかなかった」
「良い事じゃんね。年上なんだろ?多少のおいたは多めにみてくれるよ」
「どんな人なわけ?」
「別に…普通」
あまり追及し過ぎると猫のような気まぐれさのある央弥は逃げ出してしまう。
友人たちは根掘り葉掘り聞き出したい気持ちを 堪 えてアドバイスに移ることにした。
「んで、何でそんなに落ち込んでるのかもう少し詳しく話せよ」
「……デート中にちょっと言い合いになって、無言で飯だけ食って無言で別れた」
「どっちが悪いわけ」
「んん……あっちには悪気は無かったけど、俺はすんげー傷ついた。それでも、俺は空気悪くしすぎたと思う」
央弥は身長が高く、ガタイも良い。ムスッとした顔で押し黙られると、仲の良い友人でさえ話しかけるのを躊躇う迫力があるのだ。
「気まずそうに、目も合わせてくれなかった」
せっかくのお祝いのつもりだったのに、と思い出してはまた落ち込む。
「それで連絡無視されてんの?」
「いや連絡してない」
「なんでだよ!」
「え、ヤバい?」
「そんな別れ方して以降、連絡が無かったりしたら…うーん、なあ?」
「俺ならマジギレじゃんって思う」
「怖い」
「うん、怖い」
「怖いよな。特に央弥だと」
口々に怖い怖いと言われて、自分が少し拗ねて黙り込むだけで周りに与える印象はそんなにも「怖い」のだと央弥は初めて知った。
「…お、俺っ、電話してくる!」
軽い口喧嘩、葛西さんも呆れてるんだろうな…それくらいに思っていたが、もしかして…怖がられていたのか。
その夜、何度も何度もしつこく電話をかけて半強制的に央弥はまた辰真をドライブに呼び出したのだが、車内はお通夜のように嫌な緊張感で静まり返っている。
「あーあの…葛西さん」
辰真は無言のまま窓の外を見ていて、そのせいで表情さえ窺えない。央弥は何か言う勇気を失いそうになったが、恐らく怖がっているのは辰真の方なのだ。
手汗をズボンで拭ってからハンドルを握り直し、夜の街を当てどなく走りながら意を決してポツポツと話しはじめた。
「その…先に言っとくけど、俺…怒ってないから」
「…ああ」
「怒ったんじゃなくて、ほんとに悲しくて、つい…大きい声出したし、黙り込んだりしちゃったけど」
「……」
「怖がらせるつもりなんか、なくて」
辰真は困惑していた。正直、央弥が怒っていると思っていたからだ。
きちんと向き合って欲しいと言われていたのに、まだその気持ちの半分も理解していなかった事。向き合ったつもりでいて、まだ目を逸らしていた事。
我ながら非常に不誠実だったと反省している。それなのに央弥は怒るどころか、怖がらせてごめんと謝りさえする。
「……いや、謝るのは俺の方だろ」
結局ちっとも向き合わずに、適当に誤魔化して。央弥の気持ちに本気で気付かない筈がないのに…この期に及んで、知らないふりをしていた。
「ごめん」
それに対して謝罪の連絡さえせず、また逃げていたというのに。
「葛西さん」
ギッ、と抵抗を感じて車が路肩に留められた。
「その、あの…キス、してみてもいい?」
央弥が運転席から身を乗り出して、左手は助手席の背もたれに、右手は辰真の首筋に優しく触れる。
「……」
辰真はされるがままに顔を持ち上げ目を閉じた。
生温い他人の体温が唇越しに伝わって、ゾクリと背筋に鳥肌が立つような感覚がする。触れるだけのキスはあっけなく終わり、体を離した央弥からほんのりと甘めの香水のような香りが漂った。
「考え無しで悪い……やっぱり、付き合うとかは違ったのかも」
「うん、わかった」
央弥は誤魔化しもせずに涙の浮かんだ目元を拭うと無言で車を発進させた。
【迷走 2 】
▼ 2015.12.16(Wed) 迷走 3/3
【大学生編 17 迷走 3】
[2015年12月16日(水)]
いつの間に、こんなにもあの後輩の存在が大きくなっていたのか。勝手に付き纏われて、初めは鬱陶しさしか無かったというのに。
構内を歩いているとどこからともなく現れては、機嫌良さそうな笑顔で話しかけてくれるあの大型犬のような後輩の姿を思い出す。
しかし今は話しかけてくる人などいない。辰真は、央弥の学部さえ知らないのだ。
無意識にその姿を探してしまっている自分がいるのだが、ここのところ全く見かけなくなった。
――やはり避けられているのだろうか。
これまでは偶然その姿を見かける事は何度でもあったが、人気者の央弥はいつでも誰かと一緒で、辰真には見せたことの無いくだけた表情で友人たちとはしゃぎあっていたのを覚えている。
――やっぱり、俺とは違う人種だっただけだ。
その時、パタパタと背後から軽やかな足音がして、思わず脳内に「葛西さん」という嬉しそうな声が浮かぶ。しかし足音の主は見知らぬ誰かで、辰真を追い越してその先にいる学生に向かって行った。
「……」
――情けない。
まだ講義はあったが、どうしても気持ちが沈んでしまって辛かった辰真は家路についた。
そして自宅の最寄駅に降りた時、"ソレ"はホームの真ん中に立っていた。ゆらゆらと揺らめくぼんやりとした影だ。
「かわいそうに」
辰真は自分の口から無意識に漏れた声にハッとして慌てて歩き出す。
――しまった。影響させられてしまった。
頭のすぐ後ろから声がする。
『かわいそう?かわいそう?』
聞こえないふりをして足早に改札をくぐり、自宅へ向かう間も足元にぼんやりとした影がまとわりついていたがとにかく部屋に入って扉を閉める。
――大丈夫、扉は結界だ。
背後でずっと扉をノックする音が鳴り続けていたが、辰真は振り返らずにリビングに入った。
ーーー
それからというもの、行く先々に影がついて回るようになってしまい、辰真は精神的に参っていた。精神的に落ち込むと余計に引きつれてしまうとは分かりつつも、気を強く持とうと思って持てるものなら苦労はない。
幸い部屋には入って来られないらしく、何も現れなかった。いつか央弥が撒きまくった塩がまだ効いているのかもしれない。清め塩の使い方としてはあれは間違えているわけだが。やはり気持ちも大事という事なのかもしれない。
あと少し単位を取れば卒業に問題は無く、卒業制作に関してはカフェや図書館に行くより部屋で作業に没頭した方が捗る事もあり、問題を後回しにしているだけだという自覚はあったが、辰真はそんな風に作業を理由にして、どんどん部屋から出なくなっていった。
しかし、ストックしてあったカップ麺や冷凍食品の類ばかりの食生活と、日の光もろくに浴びず昼夜逆転の中でパソコンと向き合うばかりの日々はすぐに体調不良をもたらした。
こんな時は無性に寂しくて堪らなくなる。だが連絡を取る友人さえいない。唯一慕ってくれた央弥との縁は、自ら断ち切ってしまった。
「……」
熱でもあるのか、くらくらと不快な目眩にため息をついてベッドに横になると、余計に寂しさが襲って来た。
――別に、友人をやめたつもりなんかない。一度恋人関係になってそれを解消しただけだというのに、途端に連絡の一つもぱったりと寄越さなくなって、冷たい奴め。
そうだ。別に東丸の事が嫌いと言ったわけでもないし、話しかけるなと言ったわけでもない。
そう思ったが、問題はそんな事ではないと辰真自身もわかっていた。大体、本当にそう思うなら自分から連絡をすれば良いだけの話だ。
「……そういうことじゃ、ないんだよな…」
あんな、人前で大声を出すほどの感情を一体どこに隠し持っていたと言うのか。全て見せた、隠してることなんか無い、と言いながら。
――もう、友人には戻れないのか。
そう考えた途端、心細さに胸が苦しくなり耐えきれず涙が溢れた。
「……っ」
体は熱っぽいし、頭も痛い。子供みたいだ。寂しくて泣くだなんて。しかし一度流れ出した涙は止まりそうもなく、心も体も弱りきってしまった辰真は項垂れたまま央弥に電話をかけた。
数コールののち、呼び出し音が途切れる。
『も、もしもし……葛西さん?』
久しぶりに聞く声に安心して、また涙が出た。
「……と、まる……」
情けなく声が震える。熱に浮かされてぼんやりとした意識の中、ただ名前を口にする。電話越しに驚くような気配がした。少し恥ずかしさを感じたが、それは一度吐き出してしまうともう止まらなくて。
「ふ…東丸っ……」
ひく、と喉が痙攣してグス、と鼻も出る。涙に濡れた情けない声が出た。
『今どこ』
「俺の、部屋…」
『すぐ行くから』
ブツッ、と通話が切られて、無機質な電子音が繰り返される。少しだけ冷静になった辰真は子供のように泣いたりしたことを恥ずかしく思ったが、央弥が来てくれると思うと、そんな事はもうどうでもよく思えてしまった。
自分から突き放したくせに、なんとも勝手な話だ。
「葛西さんっ!!」
どれくらいぼんやりしていたのか、チャイムの音と扉の外から聞こえてきた遠慮の無い大声にハッとする。まだ夕方とはいえ、廊下に響き渡るその声に慌てて立ち上がった。
「葛西さん、大丈夫!?」
「いま開けるから」
大丈夫だからあまり騒ぐな、と扉の向こうに声をかけて扉に手を伸ばす。
――早く、早く。
もどかしく思いながら鍵を開けると、間髪入れずに扉が開かれて、一も二もなく抱きしめられた。辰真も反射的にその背に手を回してしがみつく。そうして二人は玄関でお互いに無言のまま、しばらく抱き合っていた。
走ってきたのか、央弥の呼吸は軽く乱れている。ドキドキと心臓がうるさい。それが自分のモノなのか、相手のモノなのか、もはやわからない。
「…はぁ…っ葛西さん、どうしたのいきなり…ビビるよ…」
まだ息が整わない央弥はそう尋ねながらようやく体を離して額の汗を拭う。
「いや……悪い」
「てかすっげ熱くない?熱あんの?」
「そう、かも」
「いや絶対にそうでしょ。早く寝て寝て」
ろくなものを食べていないという辰真の為に食材の買い出しをしながら、央弥はようやく冷静になってきた。ひと月ぶりに突然電話をして来たかと思うと、ただただ泣きながら何度も名前を呼ばれたりして。一体何があったのかと、顔を見るまで生きた気がしなかった。
「…はぁー、もうまじでさぁ…」
ため息と共に思わず独り言がこぼれ落ちる。しがみつかれた感触がまだ背中に残っていて、あわよくばもう一度抱きしめたいと思う。
しかし今はそんな場合ではない。なんで泣いてたのかも分からないし、前に取り憑かれていた時と同じように酷くやつれていたし。
食べやすそうなものやスポーツドリンクを買い込んで部屋に戻ると、辰真は暑かったのか寝苦しそうに眉を顰めながら掛け布団を蹴り飛ばしていた。
「葛西さん、冷えちゃうから」
息苦しくない程度に布団を直してから、お粥でも作ろうと立ち上がりかけた央弥の服を辰真が引っ張った。
「……ごめん」
「え?」
「電話したりして」
予想外の発言に央弥は声が裏返りそうになる。
「な、なんで謝んの?そんなこと…」
なんかあったら頼ってって前にも言ったよね?頼ってくれて嬉しいよ?と央弥は付け足した。
「だって」
俺の方が、突き放したのに。そう呟いて辰真は気分が悪そうに呻いた。
「突き放したって、そんな大袈裟な…」
そりゃこっちから連絡は取りにくかった部分はあったが、そんな風には感じていなかった央弥は首を傾げる。
「あんなに絡んで来てたくせに…あれから一度も顔すら見せなかったじゃねぇか。俺のこと避けてたんじゃ」
「えっ!?それは、ほとんどいなかったんだよ!ガッコーに…俺ほらもうすぐ実習行くから…!」
「実習?」
「そう、教育実習の前指導を受けたりしてて…え、俺、教育学部だよ、言ってなかっ…た?」
――知るか。そんな事。
顔から火が出るかと思ったが、言ってしまった言葉は引っ込められない。黙り込んだ辰真に央弥がいじわるに質問を投げかける。
「俺に会えなくて寂しかった?」
嘘はつきたくないが、肯定するのも何か 癪 に触る。代わりに辰真は素直な気持ちを吐き出してみることにした。
「お前と、キスをしたとき」
唐突な話題に央弥は一瞬ドキッとしたが、辰真の態度が落ち着いているのですぐに姿勢を正して聞き手に回った。
「全然ドキドキしたりしなくて」
「……え、でも、嫌でもなかった?」
「嫌とかは無いけどさ」
当然のように言い返されて、男同士があんまり普通ではないって事、この人ちゃんと分かってんのかな?と央弥は少し心配になる。
「お前の言う好きと、俺がお前と居て心地いいのは別物なんだと思って」
「ちょっとちょっと待って、ストップストップ」
辰真の告白のような言葉に央弥は思わず片手で額を押さえて、努めて冷静に聞き返した。
「俺と居るの、心地いいの?」
「ああ、お前って本当に怖いもの知らずだし、一緒にいると安心するというか、ぬるま湯に浸かってる時みたいな…」
だから、ズルズルと一緒に居てしまうが、同じ種類の好きを抱いているわけでも無いのに、央弥をそんな事で自分に縛っておくわけにいかないと思ったのだ…と、つまりはそういった事を、辰真は丁寧に言葉を選びながらゆっくりと話した。
「あの、葛西さん」
「んん……」
体調が悪いというのに話しすぎて喉が痛くなった辰真は眉を顰めて少し億劫そうに返事を返す。
「ドキドキしたりキュンってしたりするのは、いわゆる恋だと思うけど、それだけじゃないじゃん」
「どういう事だ?」
「葛西さんって、もっと深いトコロで俺のこと愛してくれてるんじゃない?」
「お前さ……よく自分で言うよな」
でも、もしかしたらそうなのかもな。と呟いて辰真は目を閉じた。
病人だというのに、疲れさせてしまった。
央弥は辰真が起きた時に食べられるよう、胃に優しいものでも作ろうと今度こそキッチンへ向かった。
【迷走 完】
▼ 2016.01.15(Fri) 疵
【大学生編 18 疵】
[2016年1月15日(金)]
不意にどこからか"あの"笑い声がして振り返った。
「ん?どーした、央弥?」
「いや」
――まただ。あの耳障りな笑い声。坂の上で聞いた、女の笑い声だ。
央弥は"あの日"から何度も、ふとした拍子にその笑い声を聞いていた。
「なんでもない」
ただの浮遊霊的なものではなかったのか。明らかに、央弥か辰真を狙っているような悪意を感じてやまない。
ーーー
「東丸?」
「わっ」
ぼんやりしていた。今日は話があるからと辰真に呼び出されて、部屋に来たのだ。
「どうした、疲れてそうだな」
「ちょっと寝不足気味で、でも大丈夫だ」
ありがとう、と出された紅茶を一口飲んでから、話って何だと切り出した。
「ああいや、そんな大した事では無いんだけど、これから卒論で忙しくなるから……って伝えておこうと思って」
連絡が取れなくても心配するな、という事だろう。また勝手に考えて悩んで、別れるだなんて言い出さなくて良かったと胸を撫で下ろす。
「そっか、頑張ってね」
「お前も忙しいのか?顔色が……」
「え、そう?大丈夫だよ」
本当はあの奇妙な笑い声に悩まされていたが、辰真がそれに気付いてないなら言うつもりは無かった。
ふたりはそれから、しばらく他愛ない話をして、忙しくなると言っているのに長居もできないからと央弥は部屋を後にした。
その後は特に連絡を取ることもなく、あっという間に1週間ほどが過ぎた。学部、ゼミ、サークル、元々なんの関係もない二人には、必要に駆られて連絡を取る事もない。
わかっていた事だとはいえさすがに少し寂しくなった央弥は、眠る前に少しだけと自らに言い聞かせて辰真に電話をかけた。
出ないかもしれないという予想に反して、2,3回ほどのコールで応答があった。
『もしもし?』
「あ、葛西さん、俺……東丸だけど」
『わかってる、流石に電話番号くらい登録してる』
呆れたように笑う辰真の声に少しほっとして、電話をかけるだけで、迷惑じゃないかなどと不安になった事を自嘲する。
――恋をするって、情緒が大変だ。
「あは……いや、特に用はないんだけどさ」
『別にいい』
少し間を置いてから辰真は続けた。
『俺も、そろそろ何か連絡しようかと思ってた』
口実を考える手間が省けたな。とぼやいた辰真に央弥は耐えきれず赤面した。理由がなくても連絡してくれたらいいのに。連絡したいから口実を探していたという、いじらしい辰真を思わず抱きしめたいと思う。
恋愛初心者の辰真は自分が今、相当に恥ずかしい事を言っているという自覚が全くないのだが、央弥はそんな辰真の発言に一喜一憂させられていつも忙しい。
「……えと、あの」
『待て』
突然、張り詰めた声で辰真が央弥の言葉を遮った。
『誰か他にいるのか?』
「え?いないけど」
『そうか……なら気のせいだな』
その言い方に引っ掛かりを感じたが、追求しても無駄だと感じた央弥はおとなしく話題を変えた。
ーーー
――あれは、笑い声だ。
笑い声が聞こえた。聞き覚えのある、女の笑い声だ。
――どこかで。いったいどこで…。
「……あっ」
その声の主を思い出した辰真は途端に顔面蒼白になり、レポートを放り出して実家へ向かった。
"あの事故"は、辰真にたまたま取り憑いた浮遊霊の仕業だと思っていた。しかし10年近く経って、先日、全く同じような事故が起きた事で、もしや悪意を持って自分を狙っている霊の仕業なのかと疑い始めていた。そんな矢先にあの時に聞いた笑い声が央弥の後ろから聞こえてくるとは。
――すごく嫌な予感がする。
1時間ほど後、辰真が実家に着くと母親が洗濯物を取り込んでいるところだった。
「あれ、辰真?」
「ただいま」
「どうしたの急に」
「ちょっと気になることがあって」
取り込みを手伝いながら辰真は言葉を探しつつ、先日の事件に関して話し始めた。
「あの俺、前に怪我したじゃん…。あれ、実はさ」
小さい頃の怪我、全く同じ状況での事故、その度に聞こえる女の笑い声。
黙って聞いていた母親は苦い顔をして、リビングに戻ろうと辰真を促した。
辰真の母には、結婚の際に縁を切った姉がいた。
強欲で、身勝手で、人のものが欲しくて堪らない、子供がそのまま大きくなったような女だった。彼女は母の恋人、つまり辰真の父に横恋慕し、ありとあらゆる手を使って横取りしようと画策したが、手に入らないとわかるなり、今度は思いつく限りの手で二人を苦しめた。
そんな彼女は親族全員から縁を切られ、辰真の両親も秘密裏に遠くへ引越しをした。当然、その後生まれた辰真の存在は知らされていなかったのだが、どこで知ったのか彼女は幼い辰真の元に現れた。
その直後、あの事件が起きた。ブレーキのワイヤーに切り込みが入れられていたのだ。 彼女は捕まり、警察から正式に接近禁止令を出されても尚、辰真に対して病的な執着を見せたが、その数年後には病床に伏した。
「……だから、あの人はもう死んだのよ。7年も前に」
辰真は足早に駅に向かいながら央弥に電話をかけたが何度かけても繋がらない。無機質な電子音が続くだけだ。
「くそっ」
イライラと舌打ち混じりに思わず悪態をつく。だんだん小走りになり、駅に近づく頃にはほとんど走っているくらいだった。
時刻表を睨みつけて時計を見る。あと5分は来ない。たったの5分が待ちきれないほど長く感じる。切れるたびにリダイヤルをし続けているが、一向に電話は繋がりそうもない。
「ああ、もう……なんでだよっ!!」
気持ちばかりが焦る。さっきまで普通に電話していたのに。じっとしていられなくて、ソワソワと歩き回りながら電車の到着を待つ。到着を知らせるアナウンスの穏やかな声色にすら苛立った。
「東丸!!」
チャイムを押しても返事がない。半ば無理やり渡されていた合鍵をこんなことで使うことになるとは、と思いながら辰真は扉を乱暴に開ける。
「東丸っ!いないのか!?」
部屋の電気はついている。悪いとは思いつつ、靴を脱いで中に入ると部屋の真ん中で央弥が倒れていた。
「と、まる……?」
喉が緊張に張り付いたようで、かすれた声しか出せなかった。すぐに駆け寄って抱き起こす。ぐったりしているが、息はしていた。その首には絞められたような鬱血痕がある。
「おい、おい東丸っ!」
起きろ。そう祈りながら何度か名前を呼ぶと背後でパキッと音がした。 家鳴り だ。
「う…か、さい…さん…?」
央弥が目を覚ましてホッとしたのも束の間、壁に掛けていた時計が外れて落下した。床に叩きつけられた時計のガラスは粉々に砕けて辺りに飛び散る。
こんなベタなポルターガイスト現象に辰真はいっそ腹が立ってきた。
「どういう理屈の執着なのかは知らねえし知りたくもねえが…こいつにこれ以上何かしてみろ!地獄に落ちて罰を受けても、俺がお前を許さねぇぞ!!」
辰真の大声に反応するように壁がミシミシ、パキパキと軋むような音を立てて、ぼんやりとした女の影が部屋の隅に浮かび上がった。
何かを呟いているようだが、聞き取れない。憎々しげにただ立っている。
普段の辰真ならそんなモノを見れば怯えて目を逸らすだろうが、今は怒りの方が凌駕しているらしく、一切怯む事なく睨みつけて対峙している。央弥を守るように、その前に立って。
「文句があんなら俺に言え!!」
そう言った瞬間、女の影は辰真に襲いかかるように近付き耳の痛くなるような大音量で「ズルイ」と繰り返して、幻のように消え去った。
自己中心的な未練でこの世に束縛されているだけの死者の魂など、強い意志を持った人間に敵うほど強い存在ではない。
「……っ」
女が消えてから遅れて恐怖心が来た辰真は安堵に気が抜けてドサッと座り込む。
「大丈夫か、東丸」
央弥は一体なんの事か全くわからなかったが、なんとなく状況を理解して座り込んでいる辰真の背中に抱きついた。
「ありがと、葛西さん…その、めちゃくちゃカッコよかった」
「そういう事は言わなくていいから」
無事で良かった。と辰真は央弥に向き直り、強く抱きしめ返した。
【疵 完】
▼ 2018.03.17(Sat) 深夜の踏切
【未来の話:深夜の踏切】
[2018年3月17日(土) 未明]
――明日は大事な約束がある。
央弥は少し浮かれた足取りで静まり返った住宅街を歩いていた。
時刻は深夜2時前。
学生時代の友人と飲み、最寄駅から2つ手前までの電車にしか乗れなかったせいで歩く事30分ほど。そろそろ普段の生活圏内に帰り着く頃だが、すっかり遅くなってしまった。辰真には寝ておいてもらおうとメッセージを入れた。
最近は仕事にも少しずつ慣れて来て、こうして飲みに行く余裕も出てきた。央弥の淡白な部分をよく知っている同窓生たちは、あの央弥が大学からの交際相手と卒業後もまだ続いていて、さらに同棲までもが長続きしている事を知り素直に喜んでくれた。
相変わらず多くは語らない央弥だったが、話してもいないことを無理に深掘りしてくるような野暮な事はしない、気の良い友人たちだ。辰真の事を話しても、性別がどうとかマイノリティがどうとか、本人が悩んでもいない事柄に対して不要なアドバイスや的外れな応援をしてくる連中でもない。
しかしそう分かっていても、央弥はまだ誰一人として自分の交際相手について語っていなかった。特に深い理由は無いが、語る必要も無いと思っていた。
――辰真さんとの事は、俺だけの宝物だもん。
しかしそれも、明日からは何か変わるかもしれない。結局は当人の感じ方次第であり、何も変わらないかもしれないが。とにかく今日は珍しく飲みすぎた。
心地良い気分で真っ暗な踏切に足を踏み入れる。深夜で終電もとっくに渡り終えた後の踏切は当然、明かりもなく開いたままだ。
なんとなく真ん中で立ち止まり、左右にどこまでも続く線路を眺めてみる。昼間だとこんな事はできない。いけないことをしているような、妙な気分だ。
すると突然、電車の到来を示すライトが赤く点滅し、けたたましくベルの音が鳴り響いた。
――こんな真夜中に、一体なんだ?
慌てて降りてきたバーを屈んで避けつつ踏切から出ると確かに車両の走ってくる音が聞こえ始めた。
「……あ、もしかして」
央弥の脳内には"点検車両か貨物列車"という可能性が浮かぶ。しかしその予想は外れて3両編成の古びた電車がやってきた。この辺りでは見たことのないデザインの車両だ。
通り過ぎるのかと思ったが、電車は甲高い金属音を大きく響かせながら踏切内で停車する。
――こんな時間に、近隣の住人は平気なのか?
なかなか耳障りな音が響き渡ったと思うが、誰も窓から顔を覗かせたりしない。気にせず帰ればいいのに、央弥は体ごと踏切を振り返ってその電車をまじまじと観察した。
――明らかに普通じゃない。
分かっているが、吸い込まれるように近付く。扉はそれを察知したかのように自動で開き、央弥を招いた。危険なものに興味を持つな、近付くなと、いつも央弥の手を掴んで引き留めた辰真は今はいない。
こんなものに遭遇したと話せば、なぜ見ないふりをしなかったのかと怒られることだろう。しかし央弥は刹那何か考えこみ、少し高い位置にあるその扉に手をかけ、車内を覗き込んでみるのだった。
【深夜の踏切 完】
【東西ホラー 大学生編 了】
央弥の就活
▼ 2016.08.06(Sat) 自覚 1/3
【社会人編 01 自覚】
[2016年8月6日(土)]
"もう怖がらなくていい。"
それは、いつか央弥が言った言葉だ。俺は、いつだってその言葉をお守りみたいに思って……。
ーーー
辰真さんの家で晩飯を食べようって話になった時、当然のように机を挟んで向かいに座るから、トイレに行って戻ってきたタイミングで隣に並んで座ってみた。
――俺は、辰真さんに触りたい。
いや、エロい意味ばっかりじゃなく、体温を感じる距離で過ごしたい……ってだけ。
「近いって」
なのに過敏すぎるほど辰真さんは俺が近寄ると怒る。そんな怖がらなくても、無理やり襲ったりしないのに。
「怖がらないでよ」
「怖がってるわけじゃない」
こうして2人きりの時をキチンと選んでるつもりなのに、そんな風に突き放されるとさすがに傷つく。
「…じゃあなんでぇ」
嫌だから…なんて言われたらもっと傷つくけど、さすがにそれは無いと思いたい。
「恥ずかしいから?それとも、まだ戸惑ってる?」
「……んん、そうだな」
「嫌じゃない?」
おそるおそる手に触れても振り解かれる事はなかった。
「嫌では、ない……」
居心地の悪そうな様子に不安になる。どう感じているのか、素直に教えてほしい。でもそれ以上は答えてもらえなくて、俺はモヤモヤしたままその手を離した。
ーーー
央弥が怒っている理由はわかる。(怒ってないと本人は言うが、拗ねてるのは怒ってると同義だろう)こんな俺の態度に愛想をつかさずに合わせてくれる優しさも理解してる。
だけど、俺にとってこんな事は何もかもが初めてすぎて、そんな自分自身に戸惑うばかりで、余裕なんて少しも無いんだ。
触れられた手にジワジワと暖かさを感じて、気恥ずかしいが、包み隠さず表現すれば…心地いい。不可解な現象に遭遇したり、見たくないものを見てしまいそうな時も、その体温が側にあるだけで安心する。
触れたくないわけじゃない、いや、むしろその逆だ。
――俺もお前に触れたいよ。
そう口にしてやれれば、こいつはどんなに安心するだろうか。わかっていても簡単に言えないのは不安だからだ。"それ"を受け入れた先に待っている次の変化が…。
言葉に詰まったままの俺の手から離れた央弥の手をぼんやりと見つめていると続きを催促された。
「けど?嫌ではないけど、何?」
「……何かが変わってしまう気がして」
「やっぱ怖いんじゃん」
「お前の事は怖くない」
央弥はガタイが良いから、自分の思う以上に周囲を怖がらせてしまう事に悩んでいるようだった。だから俺はそれは先回りして否定しておく。こいつ自身を怖いと思った事は、一度もない。
「じゃあ、手を繋ぐ先にある事が怖い?」
「そ、それは」
「セックスすんのが怖いの?」
ズバッと言われてしまって誤魔化す事もできず、真っ直ぐに見つめてくる央弥から俯いて視線を逸らした。
「俺らが男同士だからとか、それもあるけど、もし男女でもカンケイない。それだけが触れ合う事じゃないし、それだけが目的で一緒にいるわけでもない。もし辰真さんが怖いなら無理強いしたりしないし、待つし、一生待ったって構わない。今の時点で、俺だってそこまで具体的に考えたりしてないよ」
そう言いながら試すように今度は指に指を絡められて、途端に変な汗が手のひらにジワリと浮き上がる。何も答えられずに開きかけた口を閉じれば、耳を掠めるように頬に触れられて驚いた。
「今はただ、こうして触れたいだけ。好きなんだもん」
たとえば肌触りの良いタオルをつい手の中で遊ばせてしまったり、用もないのにクッションを抱き込んだり。そういう純粋な感覚で"好きなものに触れたい"のだと央弥は説明してくれる。
――そうか、それなら俺もわかる。
この肌の触れ合う安心感、心地よさにも、気兼ねせず身を委ねる事ができる。
「……わかるよ」
「ほんと?」
ーーー
ずっと緊張の解けない様子だった辰真さんの肩の力が抜けるのが分かった。強張っていた手も緩んできたから、俺がギュ、ギュ、と握ってみたり指を絡めて遊ぶのにも抵抗なく応えてくれる。
頬に触れた時にチラリと合ったきり、目は逸らされてるけど……それは照れているだけだとわかる。ついキスしたい気持ちがジワジワと迫り上がってきたものの、さすがに今は焦りすぎだなと我慢した。
「央弥が怖いわけでも、嫌なわけでもない」
「うん、それは分かったから…急かすつもり無いし、嫌な事は絶対にするつもりは無いって覚えといて」
「俺もそれは分かってるつもりだ」
遠慮がちに手を握り返されて、その後俺は自分の部屋に帰りついても、風呂に入って布団に潜り込んでも、ずっと心がポカポカしたままで。
好きな人に拒絶されなかった。たったそれだけの事で、我ながら純情な中学生みたいに舞い上がってるなぁと苦笑いしたのだった。
【自覚 1】
▼ 2016.10.14(Fri) 自覚 2/3
【社会人編 01 自覚 2】
[2016年10月14日(金)]
去年の11月に辰真さんの内定が出て、12月頃からお互いの家を行き来するようになって、今年の春に辰真さんが卒業して、就職して…。そうしてるうちに俺の就職活動が始まったからふたりともバタバタしてて、あっという間に半年が経った。
ということは、お付き合いしている…と言えるような関係になってからはもう10ヶ月くらいは経ったのか。日々話し合うことはあるものの、本格的に関係にヒビの入るような喧嘩はなく、まあちゃんと向き合ったお付き合いが出来てるのでは…と思っている。初心者同士の割には。
仕事の話はあっちから話さない限りほとんど聞かないようにしてるけど、どうも最近は疲れてるように見えるからこの週末は家でゆっくりしてもらおうと思って、食材を買い込んで部屋にやって来た。
――俺ってホント健気だよな。
合鍵で中に入ると、朝慌てて出て行ったのか部屋着が脱いだまま床に落ちていたり、使った後のカップが机の上に放置されていたりした。
綺麗好きな辰真さんの部屋はそれでもほとんど散らかったりはしていなかったから、カップを洗って部屋着を洗濯機に放り込んで、夕飯の準備に取り掛かる。
多分あと30分くらいで帰ってくるはずだから、良いタイミングで仕上がりそうだ。
ーーー
新人研修が終わり、先輩の下について資料整理や会議室の準備なんかをしているのだが、どうしてこうも毎日何か1つはやらかしてしまうのか。
ほとんどは小さなミスだが、何事も無く終える日などなくて、次は自分が何をしてしまうのか怖くて、だんだん精神が擦り切れてくる。
「葛西くん、焦らなくても大丈夫だよ。本当にみんな初めはこんなもんなんだからね」
「はい……」
少しでいいから確認しておけば。そんな些細な事で防げたような失敗を今日も繰り返す。
わざわざ先輩に聞かなくてもきちんとメモに書いたはず…。だったのに、後で読み返してみるとどういう意図で書いたメモなのか自分でも分からない。そんなくだらない事が原因でまた焦って失敗してしまう。
まだ新人だから残業するほどの仕事量では無いし、終わらなかった分は先輩が引き継いでくれる。それでも帰路につく頃には気疲れでボロボロだ。
マンションにたどり着いた時、自分の部屋に灯りが付いているのが見えて心底ホッとした。こんな時、弱みを見せられる相手がいて良かったと思う。
それと同時に「あいつも就職活動で疲れてるはずなのに、俺は甘えてばかりだな…」とまた少し落ち込んでしまうのだが。
「おかえり!おつかれさま」
「ただいま。メシ作ってくれたのか」
しっかり食べなければ余計に精神的にも追い込まれると理解していながらもコンビニに弁当を買う寄り道をする元気さえなく帰ってきたので、央弥が居てくれて助かったと再度思う。
荷物を置き、手を洗ってからリビングに戻ると遅れて空腹に気づいた。
ーーー
学校の話、最近のニュース、SNSで面白かった話題…俺がとりとめもなく話しながら食べていると、返事がだんだん減って来た。
「辰真さん、眠い?シャワー浴びてもう休んだら」
片付けとくよと声をかけると小さくお礼を口にして辰真さんは席を立つ。その顔が酷く疲れて見えて、仕事の話は俺からはしないでおこうと思っていたのに、つい聞いてしまった。
「仕事、結構大変?」
「……」
明らかに空気がピリついたのを感じて、まずったなと唇を噛む。
「……俺なんか、大した仕事はしてない」
「でもめっちゃ疲れてるじゃん」
「俺が出来ないだけだ」
「そんな、新人なんだから」
失敗するのは当たり前……と言いかけて止めた。まだ俺は社会経験なんてないし、そこまで踏み込んで良い程の関係にはなれてないと思ったから。
案の定、怒られはしなかったけど辰真さんは黙ったままシャワーを浴びるために部屋を出て行ってしまった。
食器を片付け終えて、挨拶だけしたらもう帰ろうと荷物をまとめている所に扉が開かれて、落ち込んだ表情の辰真さんに驚いた。
「ど、どしたの」
「余裕なくてごめんな」
目を逸らして俯く辰真さんの様子がどこかおかしく見えて、慌てて駆け寄る。
「なんで辰真さんが謝んの」
「お前に怒ってるんじゃないんだ。ただ…上手く出来ない自分が、不甲斐なくて」
「辰真さん」
職場で何かあったのか、自己嫌悪モードらしい。せっかくシャワーを浴びてすっきりしてきたのに、こうして部屋の入り口に突っ立っててもリラックス出来ない。
とにかく手を引いてソファに座らせると、後ろに立ってまだ湿っている髪にドライヤーをかけてあげた。
「さっきは俺もごめん。余計な事聞いたし…何も知らないのに、無責任な事言いかけて」
「……そんなことない、ありがとう」
そのまま乾いた髪を指で梳かしていると、ウトウトしてきたのか、カクッと辰真さんの頭が揺れた。
「もう寝る?」
「……もう少し…」
「うん?」
疲れているのにあまり長居するのは…と思ったが、何かいいたげなように感じて、隣に腰掛けた。
「ハグする?」
疲れ取れるらしいよ。と提案してみると、予想外にも素直に頷かれて驚く。俺に触れられるの心地良いとか言ってたし、本当はずっとこうしたかったけど照れて言えなかったのかな?
眠そうだったから寝室に移動して、ベッドの横から上半身だけ乗り上げるように風呂上がりで温かい辰真さんの体をぎゅうと抱きしめて、「お疲れ様」と労いながら後頭部を優しく撫でているとすぐに眠ったので、しばらくそうして寝顔を見守った後、起こさないように気をつけてそっと部屋を後にした。
【自覚 2】
▼ 2016.10.14(Fri) 自覚 3/3
【社会人編 01 自覚 3】
[同日]
央弥に手を引かれて寝室へ向かう。
仕事で失敗して、ピリピリして、情けなくて、悔しくて。央弥が精一杯に気遣ってくれてるのも分かっているのに、うまく笑えもしない。
気楽な大学生は良いよな…なんて、つい数ヶ月前までは俺だって"気楽な大学生"だったくせに、急に社会の大変さが分かったような口を利きたくもない。
今はそんな思ってもない事が口から出てしまうから、何も話したくない。それもこれも、きっと疲れてるからだ。ネガティブになって、イライラして。
ベッドに横になると、央弥のでかい右手が優しく髪を撫でて、肩に置かれていた左手がスルッと下された。暖かい感触が心地良くて目を閉じると、そのまま腰に腕が回されて引き寄せられる。
これ以上の失態を晒す前に帰ってもらって方がいいと思う反面、無性に央弥に触れたかった。だからハグするかと尋ねられてつい頷いたものの…こんなにも人と密着した経験なんか一度もなくて、気恥ずかしさに落ち着かなくなる。
「緊張してる?」
「いや……緊張というか…」
「すぐ慣れるよ」
いつもよく喋る央弥がそれっきり黙ってしまって、部屋が沈黙に包まれた。恥ずかしさや気まずさでなかなか落ち着かなかったが、ゆっくりと頭や背中をさすられて、次第に肩の力が抜けていく。
ホッと息を吐いて央弥の体温を感じていると途端に眠たくなってきて、その後の記憶はすっかり無い。
ーーー
それからというもの辰真さんは疲れた時、こうして素直に甘えてくれるようになった。今日も眠そうに目を瞑って凭れかかってきた辰真さんのその無防備さに思わずキスしたくなる。
焦らないと決めたばかりなのに、こんな油断した姿を見せられたら仕方ないだろ。つい抱きしめる腕に力を込めると、ハッとしたように見上げられて目が合った。それだけで俺が何を考えているのか分かったみたいで、辰真さんはすぐに目を伏せてしまう。
「ごめん、つい……」
「いや、別に謝る事じゃないだろ」
離れられるかと思った予想に反して、背中にスルリと腕が回されてドキッとした。
「何回も言ってるけど、俺、お前のこと嫌じゃないから」
「えっ」
どういうつもりの発言なのか、都合よく受け取って良いのか、真意が掴めず反射的に聞き返すと背中に回された辰真さんの手が俺の服を掴むのが分かった。
これ以上、何か聞くのは流石に野暮だろとか、いや、本当に良いのだろうかとか…頭の中にはまだ迷いがあったけど、気付けば引き寄せられるように辰真さんの頬に手を添え、上を向かせていた。
「央弥……っん」
辰真さんは何か言おうとしていたけど、離れた後にスルリと鼻先をくっつけてみたら、大人しくなった。
「…ん、ちょっ…と」
触れるだけの軽いキスを何度か繰り返すとさすがに身じろいで抵抗されて、無理に押さえる事もなく解放する。しつこかったかなと苦笑すると、恥ずかしいからと辰真さんも笑う。笑ってくれてよかった。
「はは、調子乗った」
「少しずつ慣らしてくれ」
「なんかそれエロい」
パコッと頭を叩かれて笑いつつ立ち上がる。
「やな事忘れた?」
「ああ、衝撃的な出来事のおかげでな」
「もしかして俺が初めてなの?」
「聞くなよ」
そりゃそうか。人を好きになった事ないって言ってたくらいだもんな。最後にギュッとハグすると、大分慣れたのか辰真さんもし返してくれた。
「んじゃそろそろ帰るから、あんま無理なさらず」
「ありがとな」
玄関まで見送りに来てくれた辰真さんにもう一度キスしていいか聞いたけど肩パンされて諦めた。
【自覚 完】
▼ 2018.03.15(Thu) カミサマ
【小話:カミサマ】
[2018年3月15日(木)]
――また、カミサマを見た。
前に見たのはいつだったっけな。ハッキリ思い出せないけど…。扉の向こうにあの"カミサマみたいなもの"がいたのを、ぼんやりと覚えてる。なんであんなすげーもんが付いてきちゃったのかなぁってずっと考えてた。
辰真さんと一緒に過ごすようになってから、変なモノが見えるようになって、不思議な体験も何度かした。
最初は面白半分から始まった関係で、街中で見るような"変なの"を辰真さんがいつも怖がるから、俺はいつもそれを「こんなのなんでもないよ」って茶化したりして、その度に怒られたりしてた。
そんな事ばっかしてたから、あんなのが付いてきちゃったのかなぁ。辰真さんにバレたら今度こそ怒られるじゃ済まなそうだし、早めにお祓いに行っておこう。
……なんて思ったけど、ふと気になる事があって振り返った。
――話すな。見えてないフリをして、気付いてないフリをして、記憶からも消せ。
辰真さんがいつか言った言葉が頭に浮かぶ。
――でも、そう悪いモンじゃないかもよ。
「なあ、もしかして……」
俺は"カミサマ"に振り返って声をかけ、その目があるであろう辺りに視線を向けてみた。
【カミサマ 完】
▼ 2017.06.19(Mon) 就活 1/2
【社会人編 02 就活】
[2017年6月19日(月)]
「何やってんだお前は」
約束の時間に遅れてきた上に、"良くないもの"に遭遇してきた空気を隠しもせず纏っている央弥に対して辰真は呆れつつパッパッとその肩を手のひらで弾いた。
ほんの気休めだが、肩について来た"悪い気"くらいはこれでスッと消えたりするものだ。辰真と入れ替えで就活生となった央弥は、辰真と共に過ごす中で就活に関するアドバイスや体験談を聞かせてもらう事で、2人で会う時間を有効利用していた。
「だって気になっちゃうから」
「気をつけろよ」
央弥の怖いもの知らずは今も健在で、就活に伴い行動範囲が広がる事によって見知らぬものに遭遇する事も増えた。辰真はそれが心配で妙な胸騒ぎを感じたが、子供のように言い聞かせて聞くような男ではないとよく知っている。
「お前、俺がいなくてもすっかり見えるようになったな」
「あ、確かに…そういえば」
霊が見える事は、危険を回避できるという事でもある。しかし央弥のような危機管理能力の無い人間にとっては好奇心をいたずらに刺激するだけで良い事などない。
辰真の強い霊感体質に影響されて二人で居る時は当たり前に視えるようになっていた央弥が、自身も取り憑かれたりと濃い接触を経験する事でより鋭い感覚を得てしまったらしい。
気をつけるようにと繰り返し注意されてもどこ吹く風で、むしろ嬉しそうに怪異に首を突っ込み始める始末だ。
多趣味で人当たりの良い央弥はジャンルにこだわらず気になる企業にどんどんESを提出してはあちこちに飛び回り面接を受けに行っている。
既にいくつかの会社からは内々定が出ている状況だが、まだ就活を続けている理由は勤務地だった。
央弥は、就職を機に辰真との同棲の話を切り出すつもりでいる。
了承されたわけでもないのに気が早いかもしれないが、ゆくゆくは2人で暮らすことを考えると、ちょうど良い勤務地にある会社を選びたかった。騒がしくなく、生活しやすく、交通も便利で、辰真の職場から最低でも1時間以内の駅となると限られてくる。
そして、その駅から1時間以内で通勤できる辺りで探したいのだ。もちろん本音を言えば、1時間と言わず近ければ近いほど嬉しい。
通勤は毎日の事なのだから、少しでもその時間を減らしたいのは当然だった。しかし都内で仕事を探すとなると、贅沢ばかりも言っていられない。
「今日は?」
「品川の方で面接」
辰真の部屋に泊まった央弥は朝食に出された菓子パンを寝ぼけながら口に詰め込む。
「ゆっくり食え」
じゃあ俺は仕事だから、とジャケットを羽織って辰真は玄関に向かった。
「面接頑張ってな」
「あんがと」
そんな央弥の気持ちを知ってか知らずか、以前よりは仕事に余裕の出てきた表情で柔らかく微笑み辰真は扉を閉じた。
ーーー
「はあ…だめだ、この会社も……」
隣で集団面接の開始を待っている男が何やらぶつぶつと呟いて、憎々しげに舌打ちをする。央弥は一体なんだと思ったがすぐに面接官に入室を促されて、声をかける暇もなく立ち上がった。
面接中も男は落ち着かない様子で、面接官に訝しんだ目で見られていたが反抗的な態度を取り、央弥は「何をしに来たんだこいつは…」と呆れた。
【就活 1】
▼ 2017.06.19(Mon) 就活 2/2
【社会人編 02 就活】
[同日]
「お疲れ様です」
「ん?ああ…お疲れ様でした」
「お疲れ様です!」
同じグループだった数名に挨拶されて、央弥はそのノリに少し引きつつ返事をする。
「集団面接は何度か経験したんですけど、緊張しました」
「ぼくも緊張しました!みなさん凄くハキハキしてるんですもん」
「そちらこそ。絶対受かってるでしょう」
そんな会話を「くだらね」と思いながらなんとなく聞き流し駅へ向かう方向へ歩こうと地図アプリで方角を確認していた。質疑応答はそこそこの手応えだったと思うが、隣の男が気になりすぎてあまり自信がない。
「良ければ、この後このメンバーで交流会なんていかがでしょう?同じ会社では無かったとしても、今後、働く上で関わる相手かもしれませんし」
なんとも意識の高そうな会だ。就活中は時折このような誘いを受ける事があった。しかし央弥は人当たりが良さそうに見えて、あまりこういう集まりには気乗りしないタイプだ。
一度だけ参加してみたが、まだ社会に出ていない大学生たちの背伸びした自意識を煮詰めたような会話に辟易して気疲れしただけだった。
既に複数の内定を手にしている就活生は余裕の表情で面接に勝ち抜く方法を語ったり、選考されているのは自分たちだけではなく、こちらも会社を選んでいるのだとふんぞり返ったり。
反対に難航している者は焦りや不安で愚痴や悪口ばかり。どうせコネだ、だの、圧迫面接が…だの…。
その上、央弥はこんな時にまで不必要にモテた。それがまた不快でたまらなかった。
「あなたは行かないんですか?」
「え、あー……俺は苦手で、そういうの」
声をかけられて振り返ると、先程の"独り言男"だった。
「その方が良いですよ、こんな会社を受けにくるような連中と交流したって何の価値もない」
そこそこ大きな声でそんな事を言うものだから、さすがの央弥も気まずさを感じて苦笑で返す。
「ぼく視えるんですよ、その、幽霊的なやつ」
「はい?」
「ずっといるんです、この会社」
その言葉に央弥もキョロキョロと辺りを見回したが、どうも変な様子は感じない。
「そういう会社、多いんです。就職活動を始めてしばらくしたら気付いたんですけどね、ロクでもない会社には大体いるんですよ」
ほらそこに、と指差す角には何もない。央弥は気のせいですよ、と返したが「君には視えないだけだ」と見下される。
それより央弥はその男の背後にずっと居るぼんやりとした男の影の方が気になっていた。央弥がじっと見つめると威嚇するように膨れ上がる。
「そういう会社は大抵、面接落ちしちゃうんですけど、こっちこそ願い下げなんで。ここも受からないでしょうけど、願ったり叶ったりですので。そんな訳でぼくは交流会はお断りさせていただきます」
一方的にまくしたてて、誘われてもいないというのに断りを入れると男は足早に立ち去った。
央弥は「憑かれてんのはアンタだよ」と教えてあげようかと思ったが、近くに立っていた他の就活生の女性に目線で止められる。
「やめといた方が良いですよ、就活ノイローゼで良くないものがついて来たんでしょう。口を出してもあなたが損するだけです」
「アンタも視えてた?」
「視えてるし"聞こえて"ましたよ」
あなた、興味本位であんなものを見つめちゃダメ。下手したら呪われるよ。と続ける。どうやら彼女は央弥より霊感が強いらしい。気分悪そうに肩をすくめて「私もこれで」と場を後にした。
ーーー
妙に疲れを感じた央弥はこのまま自分の部屋に帰るか悩んだが、少し辰真の顔が見たくなって寄り道をした。
一応チャイムを押してから鍵を開ける。部屋に入ると風呂上がりらしい辰真が出迎えてくれた。
「おー、おつかれ…」
「ん、なに?」
「変なもん見たか?今日」
尋ねながら辰真は央弥の肩をパッパッと払う。
「何かついてた?」
「いや……一瞬だけ何か声が聞こえたから」
念のため、と言って再度パンパンと央弥の肩や背を手で払い、顔洗ってサッパリして来いとリビングに戻る。何と言っていたのか聞きたかったが、教えてくれそうに無かった。
「就活生には聞かせたくない呪いの言葉だったよ」
それだけ言って、もう忘れろと頭を撫でられる。
「あの、辰真さん…俺の就活が終わって、いろいろ落ち着いたら…その、一緒に暮らさない?」
「その時のお互いの状況にも寄るだろうが、前向きに検討する」
笑う辰真に少し不安げだった央弥は飛びついた。
【就活 完】
▼ 2018.02 某日 明晰夢
【小話:明晰夢】
[2018年2月某日]
――ああ、これは夢だ。
夢を見ている時にそう気付く時がある。
それは" 明晰夢 "と呼ばれるもので、辰真は昔からよく体験した。
夢が夢だと気付くのは何が起きても怖がる必要がないと分かるメリットであり、あまり眠った気にならないというデメリットでもある。
辰真はいま、かつて通っていた中学校の校庭でふと気がつき、すぐにコレが夢だと理解した。誰もいない学校というのは、それだけで不気味さがある。
辺りは明るく昼間のようだが、校庭の端から見える外の道路には車の一台さえ走っていない。生き物の気配がしない嫌な静寂の中で、辰真は見たくないものを見ないように目を閉じた。
このまま、何も起こらないまま、目を覚ましたい。しかし夢の中というのは思い通りにいかないもので、足は勝手に校舎へと歩き始めてしまう。
「……」
怖いという感情が少しだけあったが、抗っても仕方がない。そしてやがて辰真は土の校庭からコンクリートの廊下にたどり着き、校舎へ入った。
コツコツと自分の足音だけが辺りに鳴り響く。
――俺はどこへ向かっているのだろうか。
静かな校舎の中を少し懐かしい気持ちで歩き続ける。何かが見えるのではないかと怯える気持ちもあるが、所詮全ては夢だ。教室の扉は全て閉まっていて中は見えないし、辰真の足は止まる事なく階段へ向かう。
やがて通常では立ち寄ることのない屋上への扉までたどり着き、ごく自然にその扉を押し開けた。特別授業の一環で一度だけ入ったことのある学校の屋上は記憶の通り薄汚れていて、貯水タンクと排気ダクトだけがある殺風景な場所だ。
「う、わっ…!!」
誘われるようにその端から身を乗り出した瞬間、物凄い力で背後から引き戻されて硬い床に尻餅をついた。
ーーー
「うわっ、ビックリした」
瞬間的に目を覚ましてガバッと体を起こした辰真に、毛布をかけようとしていた央弥は思わず驚いて一歩下がった。
「ごめん起こしちゃった?」
「いや……いや。夢、を…見て…」
まだ寝ぼけて頭が混乱している辰真はしばらく夢と現実が分からなかったが、だんだん意識がハッキリとしてきた。
「怖い夢?」
「怖くは無かったけど、怒られたよ」
「怒られた?」
「はは、お前に」
そう言って辰真は央弥におかしそうに笑いかけて、珍しく自らその手を取った。
「危ないことするなってさ」
「それ、オレがいっつも辰真さんに言われてるコトじゃん」
「そうだな」
握ったり動かしたり、自身の指で遊ぶ辰真の姿に笑いかけて央弥は空いている手でその髪を撫でる。
「ねえ辰真さん…危ないこと、しないでね」
「お前にだけは言われたくないな」
辰真は笑って返した。
【明晰夢 完】
▼ 2017.06.27(Tue) ドアスコープ
【社会人編 03 ドアスコープ】
[2017年6月27日(火)]
「疲れた」という央弥からの連絡を受け、飲みながら愚痴でも聞いてやるかと部屋を訪れた辰真は央弥がシャワーを浴びている間に持参したツマミや酒を机の上に置いて、読みかけの漫画の続きを読み始めた。
すると廊下の向こうからコンコン、と玄関の扉を叩くような音がした。辰真は不思議に思って、くつろいでいた格好のままそっちを見る。気のせいか?と思ったが、再びコンコンと音がした。さらにコンコンコン、と続く。
――インターホンがあるのに。気味が悪いな。
気にしないでおこう、と手元の漫画に視線を下すが耳はつい玄関の方向へ集中してしまう。
コンコン…コンコン…なかなかしつこい訪問者は諦めそうに無い。また就活で普段行かない場所を歩いて、たくさんの人と関わってきた央弥が何かを連れて帰ってきたか。
最初は辰真の霊感に影響される形で辰真といる時だけ霊が視えていた央弥だったが、いつの間にか最近はひとりでも視えるようになり、憑かれて帰ってくることも増えた。
以前ほど興味本位で首を突っ込んだりはしていないハズなのに、央弥の霊感の上昇とそれに伴う霊障は加速し続けている。
反対に辰真は非常に強い霊感体質だったのが、叔母の霊が消え去った後から弱まったような気がして、最近ではほとんど鈍感になっている自覚があった。
その事自体は純粋に本人にとっては大変嬉しい変化ではあったのだが、央弥が巻き込まれる危険に気付けなくなるのでは…という意味では複雑な思いがするのであった。
理由は分からないが、"俺の霊感が央弥に移った"のでは…と考えているのも、辰真が複雑な心境の理由だ。そうすると、央弥の身に降りかかる不運や病気、事故なんかが全て自分のせいだと思えてくる。
今や誰よりも大切で身近な友人であり、パートナーと呼ぶべき存在になった央弥にはいつでも安全な暮らしをして欲しいと思うのは当たり前の感情だった。
まだ止まらないノックに辰真は覚悟を決めて立ち上がり、玄関扉へ向かう。
央弥がシャワーを終えて出てくるまでに、この訪問者を追い返しておきたい。霊と接触するのは怖い……しかし、央弥に接触させる事はそれ以上に嫌だった。
静かに移動し、気付かれないように扉の前まで行く。
コンコン、コンコンコンコン……
音の発信源は目線より少し下のあたりだ。辰真と同じ背丈くらいの人間が胸の前に拳を作り、軽く扉をノックしている様子が思い浮かんだ。他にも辰真の脳裏には次々と怖い妄想が広がる。
生気のない子供が腕を伸ばしてノックしている様子……髪の長い女が恨めしげに睨みつけている様子……むしろ誰もいない、という可能性もある。
――怖がっていても仕方がない。
辰真は手汗のにじむ手のひらをズボンで拭い、そっとドアスコープを覗いた。スコープのガラスで歪んではいるが、そこには見間違えようもなく、辰真自身が無表情で立っていた。
思わず声が出そうになったが耐える。そして瞬間的にいろいろな事を考えた。
央弥に取り入ろうとした悪霊が俺の姿を模してきた?どう対処すべきだ?強気で怒鳴りつけるか?このノックは、この部屋に入りたいという事か?どうして俺の姿を知っている?――いや、俺が連れてきたのか?
その瞬間。
「あれ辰真さん、どうしたの?」
背後から央弥の声がした。しまった。辰真が慌てて振り返ると、扉が激しく叩かれた。
「えっなに……」
「央弥、開けてくれ」
ゾッとした。"それ"は声まで辰真と同じだった。動画なんかで撮って聞いたことのある、自分自身の声だ。それが扉の向こうからハッキリと聞こえてくる。
「こ、これ……俺の声だよな」
「うん、辰真さんの声」
「開けてくれ」
ドンドンとやかましく叩かれる扉に"近所迷惑"という言葉が脳裏に浮かんだが恐怖で何も言い返せない。
「央弥、そいつは偽物だ、俺に化けてる」
その言葉に辰真の背筋がいよいよ凍った。自分自身のアイデンティティが崩されそうになる。
――いや、まさか、そんな。
その時、央弥がグッと力強く辰真の肩を掴んで胸元に引き寄せた。
「辰真さん、大丈夫だから安心して」
「央弥、騙されてるんだ、そいつは危険だ」
「アンタは辰真さんじゃないよ」
「ここを開けろ!」
扉を叩く音に加えドアノブが激しくガチャガチャと回されて、辰真は恐怖によろめいた。
「はっ……はぁっ……お、央弥」
「央弥!ドアを開けろ!」
「辰真さん大丈夫だから。落ち着いて、こっち来て」
変なの連れて帰っちゃったなぁ、と呑気に言って央弥はテレビを少し大きめの音量でつけると玄関へ続く廊下の扉を閉じ、酒を飲み始めた。
「あの扉はアイツには勝手に越えられないみたいだから、気が済むまで暴れさせておこう。大丈夫だよ。言葉に引っ張られちゃうから、これ以上もう聞かないで」
央弥の言う通り、なんとか気にしないようにして2人で話しながら飲んでいるうちに、いつの間にか外は静かになっていた。
「せっかく来てくれたのに、怖い思いさせてごめん。大丈夫だと思うけど……明日どっかでお祓いしてもらっとくね」
「そんな簡単に……アテがあるのか?」
「うん、実は何回か祓ってもらってて」
何故か霊の扱いにすっかり慣れている様子の央弥に辰真は更に心配が増したが、今は何も言わなかった。
【ドアスコープ】
▼ 2017.07.22(Sat) 神隠し
【社会人編 04 神隠し】
[2017年7月22日(土)]
――央弥と連絡がつかない。
辰真は落ち着かない様子で何度もスマホで時間を確認しては、家を出るかここで待つか考えている。
「面接の後に向かうから、夕方5時頃に家に行く」と連絡があったのは今日の午前中の事だ。
辰真は6時まで仕事だから合鍵で入っておくように返事をして、面接終わりの央弥を労おうとコンビニで甘いものを買ってから帰宅したのだが、部屋の電気は消えたままだった。
不審に思ってすぐ電話を鳴らしたが出ない。別に約束というレベルの話ではないが、自ら宣言した時間を過ぎる場合は一言連絡を入れてくるタイプの央弥が、この時間になっても現れず、連絡も繋がらないのはおかしい。
――探しに行くか?でもどこへ?それに、部屋を出たら入れ違いになるかもしれない。
そんな葛藤で辰真は落ち着いて座ることも出かけることも出来ず、部屋の中をウロウロと歩き回った。メッセージを送っても当然既読にはならない。どこで何をしているのか検討もつかないし、共通の知り合いはひとりもいない。
辰真には央弥を待つ以外に出来る事が無かった。交通事故の可能性だってある。しかし、緊急時に病院や警察から連絡が来る立場では無いのだ。それが歯痒かった。
「……どこで何してんだ、央弥」
危ない事はするなよ……いつもいつも言ってる事だ。何にも巻き込まれないでいてくれ。ただただそう願う。
そんな地獄のような時間がどれくらい過ぎたのか、これ以上待てないと思った辰真は連絡しろという簡単な書き置きを机に残し、財布とスマホだけをポケットに捩じ込むといく当てもなく玄関へ向かった。
だがドアノブを捻った瞬間、その妙な軽さに肩透かしを喰らう。向こうから同時にドアノブを回されたような感覚だ。
「え」
「わっ」
勢いよく開いた扉の向こうには央弥がいて、前のめりになった辰真を抱き止める形になった。
「辰真さん?俺より遅くなるんじゃ」
「おまっ……」
キョトンとした様子の央弥に思わずカッとなり、マンションの廊下だと言うのに辰真は大きな声を出した。
「心配するだろ!遅くなるなら連絡の一本くらい入れろよ!」
「な、なになに」
辰真の激昂とは反対に央弥は何が何やらといった態度だ。その反応に勢いを削がれた辰真は自分が時間を読み間違えたのか?と思えてきてスマホを取り出した。とりあえず入ろうよ、と央弥はその肩を抱くようにして一緒に部屋に入る。
「……5時くらいに来るって連絡してきたじゃねえか」
「え、うん」
そんな遅れた?と靴を脱ぎつつ言いながら央弥は自身のスマホを取り出した。そして待ち受けの時計で時間を見て目を見開く。
「え!!10時!?」
「そうだよ」
嘘ぉ!と叫びながら扉を開けて外を見るともう辺りはすっかり真っ暗だ。央弥は振り返ってまずは素直に謝る。しかしその顔は納得いかない様子だった。
それもそう、央弥は確かに時間通りにここへやってきた。部屋の前でまだ夕暮れの空を見ながら、辰真が帰ってくるまでに炊飯器をセットして、さっとカレーでも作って……なんて考えていたのだ。
なのにドアノブを捻った瞬間、部屋から辰真が飛び出してきたかと思えば、遅いと怒鳴られて、確かに辺りは真っ暗になっていて……。
「俺、タイムトラベルしちゃったのかな」
「……」
冗談を言っている様子はない。辰真はそっと央弥の腕に触れて、確かにそこにいることを確かめた。央弥も同じように辰真の頬に触れる。
「またどっかで危ない事に首でもつっこんだのかと」
「この5時間、神隠しにでもあってたんだとしたら、まさに危ない事に巻き込まれてたのかもね」
俺、消え去るとこだった?と笑う央弥に辰真は不機嫌な顔をする。
「冗談でもやめろ」
「ごめんってば」
央弥はそう言いながらチラリと振り返った。
さっき開いた扉の向こうには真っ黒で首のない大きな鳥のような、人間のような……変な姿をしたモノがいた。今まで見てきたどんな霊とも違う、圧倒的な威圧感と禍々しさだった。
――あれって、カミサマかな。
央弥はそう思ったが、辰真が少しも気付いていない様子だったので「心配かけてごめんね」と優しく微笑んで一緒にリビングへ向かうので合った。
【神隠し 完】
▼ 2018.02 某日 感染
【小話:感染】
[2018年2月某日]
「辰真さん、ストップ」
「え」
服でも買いに行こうと連れ立って来たショッピングモールでスマホの通知を確認しながら歩いていると突然、隣を歩いていた央弥に少し乱暴に肩を掴まれた。
「ぶつかっちゃうよ」
そう言われても障害物なんかない。一瞬とはいえスマホに気を取られたことを危ないと思われたのだろうか。
「……?ああ、ちゃんと気をつける」
ポケットにスマホを仕舞うと央弥は一瞬変な顔をした。
「うん、そうして」
「あ……もしかして、いま何かいたか?」
こいつは俺が怖がると知ってから最近、俺が気付いていない時はこうしてはぐらかしている感じがする。
それも一度や二度じゃない。ハッキリと言及したことはなかったが、絶対にそうだ。
「そんなんじゃないってば」
「嘘をつくな」
「怖い顔しないでよ」
気づかなかったならそれが一番じゃん、という央弥に複雑な気持ちになる。
今までは確かにそうだった。見ずに済むならそれで…。
「でもお前は首をつっこむだろ」
「最近はしてないって!」
「信用ない」
「過去の行いかぁ」
「悔い改めろよ」
信用してほしかったら危ない事に首をつっこまない姿を見せ続けろと言えば央弥はニコニコ頷く。本当に分かってんだか。
「辰真さんがずっと監視してくれるなら、ちょっとくらい心配させるのもありかも」
「ばか、怒るぞ」
そう話しながら歩き始めるとさりげなく位置を交代させられた。本当にさりげなくて、普段なら気付かなかったと思う。
俺は立ち止まって振り返った。
ーー何もいない。
いや違う。俺には"視えてない"んだ。その事に気がついた時、背筋がゾッとした。
「辰真さん、早く行こ」
「あそこ、まだなにかいるのか」
「気にしなくていいから行こ」
央弥に腕を引かれて無理やり歩かされる。
「危ないってば」
「なんで」
「気付かないのが一番の対処法なんでしょ」
「なんでお前には視えてる!」
「そんなの知らないよ」
周囲の視線も気にせず声を上げてしまった。
「お前が危ない事に首を突っ込んでても、気付けない…」
「危ない事はしないってば」
困ったような顔で振り返る央弥に何も言えない。信用してないわけじゃない。でも…。
「大丈夫だよ。約束するから」
前に央弥が"視えないモンの方が怖い"と言った意味が今ならわかる。たとえ視えなくても、そこに確かに"いる"のなら、視えた方がマシだ。
「辰真さんはもう怖がらなくていいよ」
視えないものはそのままでいい、という央弥にヤキモキする。俺は央弥の言う約束を信じるしかない。
「……約束は守れよ」
「うん」
何かあったら隠すなよ、とも付け足すと微妙な反応が返ってきたので肩を殴っておいた。
【感染 完】
共同生活
▼ 2017.08.11(Fri) 物件探し
【社会人編 05 物件探し】
[2017年8月11日(金祝)]
この辺りだと新宿はちょっと遠いけど、まあなにより、京浜東北線だったら某テーマパークにも行きやすいしな…。
辰真さんってああいうとこ行くのかな?シルバーウィークとか誘ってみようかな。あ、でも人が多いのは嫌がるかな。
車で辰真さんちに向かう道すがら、信号待ちの度に路線図を見ながらいろいろ考える。
まだ内々定だけど就職先が決まったので、俺は今これから辰真さんと一緒に暮らすのに丁度いいエリアを探している所だった。
ふたりとも物件探しも引越しも経験してるから話はサクサク進みそうだ。
「大体この辺りで絞ろうか」と辰真さんが俺の通勤に都合のいい駅を指差したから俺は「それじゃ辰真さんが絶対に2回は乗り換えなきゃいけないじゃん」と反抗したけど押し切られてしまった。
仕事に慣れるまでは通勤が楽なエリアにしておけ、3年目に入る頃に契約更新の話が出るだろうから、その時にまた引っ越したら良いし。
……という辰真さんの言葉に、3年後も当たり前に一緒にいる事を前提に考えてくれている事が嬉しくて。甘える事にしたんだ。
同性同士の入居にフレンドリーな不動産もある事は知っていたけど、俺たちはルームシェアの名目でふたりで部屋を借りる事にした。
この関係を積極的に周囲にバラすつもりは今のところお互いに無い。話す必要の無い所では話さない。それが暗黙の了解であった。
軽く鼻唄を歌いながらぼんやりしていたその時、着信が入ったのでハッとして応答する。
『もしもし、今どこだ』
「いまセブンのとこ、なんか買って行こうか?」
『いや、いい。すぐ出るから前でそのまま待っててくれ』
「おっけー、焦らなくていいよ。約束よりずっと早いし」
言われた通りに辰真さんちの前に停車して待ってるとすぐに駆け寄ってくる姿が見えたので窓を開ける。
「走らなくていーよ!」
「間に合うか?」
「余裕!」
今日は内見に行く事になっている。辰真さんも早めに出てきてくれたし、俺もワクワクして早めに着いてしまったから、どこかで時間を潰さなきゃいけないくらいかもしれない。
いくつか事前に気になる物件は伝えてあるが、不動産屋の方からも提案してもらえるように頼んである。
どこまで参考になるかはわからないけど、俺たちは事故物件のまとめサイトを見て該当物件はもちろん、その隣近所も避けるように物件探しをしていた。
「……ではこのような感じで、回ってみましょうか」
「はい、お願いします」
「乗ってきた車そのまま置いててもいいですかね」
「もちろんです、少々お待ちください」
社用車を回して参ります。と言い残して立ち去った担当さんを見送る。
「本当によかったの?このエリアで」
「今更」
「最終確認!」
「いいってば、気にすんな」
「疲れた時は肩揉んであげるからね」
「こっちのセリフ」
「社会人の先輩ぶんなよな、たった2年で」
「はは」
そんな事を話していると担当さんが店に入ってきた。
「では行きましょうか」
見せてもらった候補の中から絞った結果、4つの部屋を回ってみる事になっていた。
でも……。
ーーー
「待って、辰真さん」
「ん?」
「ここで待ってて。車の中にいて」
2件目の前に着いた時、央弥は辰真に小さな声でそう言った。ふざけている様子はない。
辰真は央弥の様子にすぐそのマンションからさっと目を逸らして、スマホを取り出した。
「あれ、葛西さまは来られないんですか?」
「ちょっと仕事先から急ぎの連絡が入ったみたいで…ここは元々あんまりだと思ってたみたいなので、俺だけ見せてもらっていいですか?」
「いいですけど、エンジン切っちゃいますよ」
「さっと見て戻ります」
辰真は立ち去ったふたりを横目に見ながら事故物件情報サイトを開いた。ここには何のマークもないし、辰真自身も何も感じない。
――気のせいじゃないのか……?
そうは思ったものの、央弥の様子が真剣だったのを思い出して首を振る。
ーーここはナシだな。
本当に央弥はさっさと帰ってきた。
軽く中を確認しただけで、あっさり「やっぱり微妙でした、せっかく連れてきてもらったのにすいません」と断って来たのだった。
「ただいま」
「ああ、どうだった」
「思った通りだったよ」
「駅からも少し遠いですしね、次に行きましょう」
思った通りだった……つまり、何かが"いた"ということだろう。辰真は早くここから立ち去りたいと思ったが冷静なフリをした。
その後は特に何事もなく、ふたりは意見が完全に一致したので3つ目に見に行った物件で契約する事を決めて帰ってきた。
辰真の家へ向かう途中、ふたりはコンビニで少し休憩していた。
「送り迎えありがとな、結構遠いのに…」
「いいよ、結構運転すんの楽しいんだ」
「これからは卒論か?」
「うーんそうだね、でもおかげさまで早めに取り掛れそうだから、さっさと終わらせて残り全部遊ぶ!」
酒はほどほどにしとけよ。と辰真が言うと央弥は呑気に笑って「はーい」と答えた。絵に描いたような陽キャではあるが央弥は本当に越えてはいけない一線をちゃんと持っている。
辰真もそれは分かっているので口で言っているだけだ。
「さっきの」
「うん?」
「何か見えたか?」
「なんとなくだけど、予感がしてさ」
やっぱ車の中で待っててもらって良かったよ。そう言って央弥は飲み終えたコーヒーの缶をゴミ箱へ投げ入れる。
嘘だった。マンションの前に着いた時から"ソレ"はいた。それも、複数。
こちらには興味がなさそうだったので、辰真を置いていくことも心配ではあったが、どうも気付いていないようだし、近くを歩かせるくらいなら…と車内で待っていてもらったのだった。
ーー辰真さんは、このまま何も見えなくなればいい。
人混みに何かを見るかもしれないとか、暗い路地は不安だとか、そんな事を考えることさえ忘れるほど、何も起きないことが当たり前の日常を生きて欲しい。
央弥は「よし」と気持ちを切り替えて、車へ戻るのであった。
【物件探し 完】
▼ 2017.09.17(Sun) ともに暮らす事
【社会人編 06 ともに暮らす事】
[2017年9月17日(日)]
辰真と央弥は祝日の前日に合わせて引越しの日を選んだ。
それぞれ別で都合の良い日に入居してきても良かったのだが、2か所積みを安くしてくれる業者があったので予定を合わせたのだった。
お互いひとり暮らしをしていたので、家具家電が被ってしまう。処分するにも手間と手数料がかかるので、さすがに2つ置けない洗濯機以外はとりあえず持ち寄る事にしたのだった。
「いやー、思ったよりモノだらけになったねぇ」
「荷物は少ない方だと思ってたが、ま、これくらいにはなるよな……」
ふたりの家を経由し、ふたり分の家具家電を運び込んでくれた引越し業者に礼を伝えて、辰真と央弥はそれぞれ自分の荷物が入った段ボールに手をつけた。
「とりあえず自分のモンは自分の部屋に放り込む!」
「そうだな」
ふたりはひとまずそれぞれの段ボールを自室へ運び込み、リビングのスペースを確保した。
「とりあえずこれでメシは食えるし、寝る場所は大丈夫だし、焦らず片付けて行こう」
「ああ、一旦腹ごしらえでもするか」
「電子レンジが2つになるなら、どっちかはオーブンならよかったのにね」
ひとり暮らし用の小さな冷蔵庫を自室に持ち込む辰真の背中に央弥は「それ結局持ってきたの?」と声をかける。
「使わんかもしれんが、慌てて捨てなくてもいいだろ」
「まあ飲み物用とかにできるか」
いいなぁ、自分の部屋に冷蔵庫あるの!と央弥は羨ましがった。
「お前の冷蔵庫は共用にしていいのか?」
「いいよ!たっぷり大容量だし!割と料理は好きだけど、さすがにひとりじゃ持て余してたからさ」
洗濯機は辰真さんのを使わせてもらうしおあいこだよ、と笑う。
ふたりは作業を一旦休憩して、昼飯を食べに行くついでに部屋の近くを散策してみる事にした。
玄関で順番に靴を履きながらどこへ行くか話し合う。
「インドカレーとかないかな」
「出て左に行けばスーパーがあるんだったな」
「駅前の方も行ってみる?」
部屋を出て真新しい鍵をふたりとも手に取って、顔を見合わせて笑い合った。
「新居ってなんかワクワクするね」
「あ、前の部屋の退去手続き、早めに進めてもらえて明日立ち会いになった」
「まじ?良かったね。んじゃ送ってくよ」
「いい、朝早めだから」
「ちゃんと起きれるってば!」
「アテにしてよ」と言う央弥に辰真は「アテにしてるよ」と返す。それだけで大型犬が尻尾を振るように満面の笑みを惜しげもなく晒して喜ぶのだから、辰真もいささか気分が良くなる。
「早いって言っても10時とかでしょ?」
「まあな。でもここを9時には出ないと」
「らくしょーらくしょー」
「じゃあ頼む」
「うん!」
嬉しそうな央弥に辰真は笑って、その頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
ーーー
駅前にあったインドカレー屋で昼飯を済ませたあと、辰真さんがスーパーで生活必需品を買ってくれてる間に俺は前の部屋の退去立ち会いに向かった。
引越しに退去に……1日に詰め込みすぎたかと思ってたけど、明日も休みだし一気に済ませてしまえば後が気楽だしこれで良かったかなと思う。
あくびを噛み殺しながらハンドルを握り直すと、辰真さんから着信があった。
『今日の晩飯、作る余裕ないよな?なんか適当に買っておいていいか』
「あ、うんそうだね、キッチンもまだごちゃごちゃだし」
『電子レンジはあるもんな。なんか温めて食べれるやつ買っとく』
「ありがと、助かる」
こういう何気ないやりとりが、これからは普通の日常になっていくのかなと思うとジワジワと嬉しい気持ちが胸に広がるような感じがした。
引越し祝いにケーキでも買って帰っちゃおうかな、なんて浮かれた事を考えながら車を走らせた。
【ともに暮らす事 完】
▼ 2018.01 某日 落とし物
【小話:落とし物】
[2018年1月某日]
それは黒い財布だった。
……いや、拾い上げてみるとどうやらパスケースのようだった。
「央弥、どう思う?」
「どう…って、パスケースだね」
辰真は拾い上げたそれを央弥に見せる。
2人は珍しく休日が被ったので、たまには外で一緒に昼ごはんでも食べようかと駅前に向かう途中だった。
「定期とか入ってたらさすがに届けてあげたいね」
「いや……どうやら名刺だけみたいだ」
パスケースの中にはいくつかの名刺と、レストランやカフェのカードも入っていた。本人のものらしき名刺は無さそうだ。
「これじゃパスケースというより、名刺入れだな」
「名刺は全部バラバラだね」
「ああ、本人の名刺はなさそうだ」
あまり人の名刺を勝手にジロジロと見る気にもなれず、サッと確認を済ますと2人はそれを閉じ、道中に交番はあったかな、と呟きながら歩き出した。
央弥はスッと手を伸ばして当然のようにそのパスケースを預かろうとしたが、辰真はそれに気付かず平然と自分の胸ポケットへ差し込んだ。
「ん?」
「いや、俺が持っとこうか?と思って」
「なんでだよ」
子供扱いか?と笑う辰真に対して、央弥は一瞬何か言いかけたがやめた。
途中で見つけた交番は巡回中の看板が机に置かれていて無人だった。正式に拾得物を届けると、書類を書いたり拾った場所や時間を詳しく聞かれたりして面倒だ。
悪人では無いが真面目でも無いふたりはコレ幸いと無人の交番の前にパスケースを置き、そのまま素知らぬ顔で目的地へ向かった。
「辰真さん、ちょっと寄っていこうよ」
「は?寺だぞここ」
「いいからいいから」
なんか景色良さそうじゃん。と本心かどうかわからない事を言いながら央弥は門を潜って寺の敷地内へ入った。
よくわからないと思いつつも、辰真はこういった場所の神聖さのある空気が好きで、気分よく深呼吸をした。
「いいメシ屋が見つかりますようにって!」
「神頼みかよ」
「ここは寺だから仏頼み!」
ほら!と言いながら央弥はポンと辰真の背中を叩いた。
その瞬間、辰真はなんとなく体が軽くなったような感覚を覚えて驚き央弥を見るが、首を傾げられた。
「どしたの?」
「いや…なんでもない」
たまたまか。そう思って何か尋ねる事は止めた。
【落とし物 完】
▼ 2017.10.02(Mon) 内定式
【社会人編 07 内定式】
[2017年10月2日(月)]
飾りっ気のないリクルートスーツに身を包んだ央弥を道ゆく人がチラチラと横目で見る。
今日は内定式だった。
ピカピカの新社会人たちが他にもたくさん歩いているわけだが、央弥の目立つガタイにはツルンとしたリクルートスーツがミスマッチで悪目立ちしていた。
これなら派手目のストライプでも入ったスリーピースを着ている方がむしろ目立たないまでもある。
その場合、ホンモノと思われて避けられそうではあるが。
すれ違う人々の「こいつも新卒なのか」という目線にうんざりしつつ、央弥は次の春から通う事になる会社の内定式へ向かっていた。
早めに行っておけと辰真に家を追い出され、まだまだ時間に余裕はある。
そんな時、駅の構内で見覚えのある女性とバッタリ会って思わずお互いに立ち止まった。
「……あ、あー、どうも」
「あ…、よくわかりましたね」
それは就活の時に一度だけ別の企業で一緒に集団面接を受けた人であった。
別に挨拶をしなければならない仲でもないが、つい立ち止まってしまった以上軽く言葉を交わす。
「あなたも、内定式みたいね」
「おかげさまで」
だが行き先は別のようだ。央弥はここで出るが、彼女は乗り換えるらしい。
「同じ会社じゃなくて良かった」
「そりゃどうも」
「冗談で言ってるんじゃないから」
鋭い視線で睨みつけられて央弥は居心地が悪く、ポリポリと誤魔化すように頬を掻く。
「あなたに自覚があるかどうか知らないし、知りたくもないけど。寄ってきやすい体質っていうのはあるから。気をつけて」
「分かってる……と思う。忠告ありがとう」
「お元気で」
足早に立ち去った背中をぼんやりと見つめる。
彼女は央弥よりも霊感が強かった。
央弥は「俺、なんか憑いてんのかなぁ?」と思った後、まず「辰真さんに影響あったらいやだな……」と思った。
でも、大体のものはこっちが気付いてなければそのうち離れていくハズだ。
辰真にも危ない事には首を突っ込むなと何度も何度も言われている。無理に自分の背後にあるモノに目を凝らすような真似はしないでおこうと思った。
ーーー
堅苦しい内定式が終わり、会社の用意した店で同期と人事との食事会からの同期同士での二次会を終え、ほろ酔いで辰真さんに電話をかける。
「もしもーし、終わったよ」
『お疲れ様、疲れたろ』
「うん、変に気ぃ使っちゃって」
『そりゃそうだ。気をつけて帰って来い』
「駅まで迎えに来てぇ」
『わかった、着く時間がわかったら連絡しろ』
「え、まじでいいの?」
『いいよ』
スマホ越しに聞こえてくる辰真さんの優しい声に胸がギュウとなった。好きだ。
「大好き」
『酔っ払い』
「そんな酔ってないよ」
『もう切るぞ、ちゃんと前見て歩け』
そっけなく切られたけど、照れ隠しだろうと思う。
誰かに甘えた事を言って、それを優しく受け止められる事がこんなに嬉しいだなんて知らなかった。
そもそも、甘えたいだなんて思ったこともなかったのに、不思議だ。辰真さんには、ワガママを言ってみたくなる。
そして辰真さんは大抵のワガママを聞いてくれる。
嬉しくてメッセンジャーで「好き」とチャットしてみると既読スルーされた。
電車に乗れた後に「23:45に着く電車に乗ったよ」と送れば、OKのスタンプだけが送られてきた。
もう一度、今度は「好き」のスタンプを送ってみたら「寝て乗り過ごすなよ」と返事が来た。
その間も、さっそく作られた同期のグループチャットでは"これからよろしく"だの"楽しかったありがとう"だの社交辞令の応酬が行われていたので、流れに乗じてよろしくのスタンプを押して閉じた。
ーー社会人になるって、どんな感じだろう。
内定式を終えてみても、まだピンと来ない。
俺とは関係ない世界の話みたいだ。
俺も、社交辞令を言って、愛想笑いをして、上司の愚痴を吐く週末飲みをしたりするようになるんだろうか。
それとも、意識高くいろんなセミナーに顔を出したり、社友会にでも入ったり……。
「くく、変なの」
想像つかなくて笑った。
大体、毎日スーツを着て毎朝決まった時間に電車に乗るだけでも考えられないのに。
――あーあ。社会人になるの、嫌だなぁ。
でも、自由に使える金が増えるんだから、辰真さんともっといろんな事できるよな。
今は親父の車を貸してもらってるけど、自分の車も買って……。
改札を出ると壁に凭れて辰真さんがスマホを弄っていた。
「辰真さん」
「おかえり」
「まじで来てくれたの」
「どういたしまして」
「へへ、ありがと!」
上機嫌だな、と言いながら水のペットボトルを渡されて反射的に受け取る。
「え、買っててくれたの?」
「どれくらい飲んだのか知らないけど、とりあえず飲んどけ」
「うん」
そんなに酔ってなかったけど、酔ったフリをしたら優しくしてもらえそうだなと思って言わなかった。
辰真さんも半分くらいはそれも分かった上で甘やかしてくれてるんだとは思うけど。
「内定おめでとう」
「ありがとう」
「社会人に一歩近付いたな」
「ちょっと複雑なんだよなぁ」
「あと半年の自由を謳歌しとけ」
「そうする!Dランド行こ!」
「Dランド?」
あからさまに面倒そうな顔をしたけど、辰真さんは「お前とならまあいいか」って言ってくれた。
「まじ!?約束!」
「約束はできないな」
「仮の約束!」
「仮な」
嬉しくてハグしたかったけど、肩を組んで我慢した。
辰真さんは照れくさいのか「酒臭い」って言ってたけど、押し返されはしなかった。
【内定式 完】
▼ 2018.01.01(Mon) 初詣
【社会人編 08 初詣】
[2018年1月1日(月・元旦)]
今が人生で一番自由な時間かもしれない。
そう思って、就活も卒論も終えた央弥は本当に毎日毎日を大切に遊び倒していた。
平日は辰真は仕事なので大学の友人たちと集まったりしてはいるようだが、まだ進路が決まりきっていないメンツもいるらしく、少々複雑なようでもある。
そんな理由もあって、いつも年末年始と言えば友人たちと過ごしていた央弥だったが、今年はごく自然な運びでそっちに参加することなく、辰真と過ごす事ができた。
「……うわ、もう昼だよ」
「まじか」
いつの間にか一緒になってリビングで寝てしまっていたふたりはのそのそと起き出して伸びをしたりテレビを付けたりする。
「初詣行く?」
「んー、いつも元旦に行く派なのか?」
「特にこだわりは無くて、なんとなく気の向いたタイミングでって感じかな」
「俺もそう」
リビングの真ん中に立ったまま、テレビの新春特集をぼんやりと眺めている辰真に央弥は後ろから抱きついた。
「あけましておめでとう」
「日が変わった時にも言ったろ」
「何回でも言うよ、今年もよろしくって」
「ああ、こちらこそよろ……」
逃げられないのを良いことにキスすると「寝起きなんだぞ」と怒られる。央弥がそのままふざけて服の中に手を突っ込むと流石に頭をペシリと叩かれた。
「辰真さぁん」
「昼間っからやめろ」
「だって初詣行かないなら他にする事ないじゃん」
「行くか。初詣」
つれない態度だが央弥は気にしない。構ってもらえて嬉しいと言わんばかりにニコニコしている。
行くかと言いつつふたりともだらだらと出掛ける準備になかなか取り掛からず、結局家を出たのは4時すぎだった。
「さむっ」
「だからマフラー巻いて来いって」
辰真は仕方ないなと自分のマフラーを外そうとする。それを見て央弥は慌てた。
「いい!いい!」
「なんでだよ」
「こっちのセリフだよ!ちゃんとあったかくしてよ」
「お前こそ」
「いいから!」
そういうのはヤダ。と言われて辰真はおとなしく自分の首にマフラーを巻き直した。
「寒かったら言えよ」
「手でも繋いでくれるの?」
央弥の冗談を無視して辰真はさっさと歩き始めた。
ふたりは特に信心深いわけでもなかったので、近所にある小さなお寺へ行くことにした。
近隣住民しか来ないであろう小さなお寺で、夕方ということもあり参拝者はふたりだけだった。
「5円あるか?」
「ある」
カラカラと音を立てながら賽銭を投げ込み、ふたりは互いに口を閉じてお祈りをする。
ーー央弥が危ない事に巻き込まれませんように。
ーー辰真さんがもう怖がらなくてすみますように。
ふたりは大体こんな事を考えていた。
本気でご利益があるかなど仏頼みに期待ばかりするわけではないが、そんな日々を作っていけるように頑張ろう…と自分に言い聞かせるような気持ちだった。
「さて、帰るか。寒いし」
「帰ったら温かいもの作るよ」
「粕汁がいいな」
「おっけ、買い物して帰ろ」
具沢山にするね。と言って央弥が笑う。辰真はその後を歩きながら「結構、幸せだな」なんて思った。
【初詣 完】
▼ 2017.10 某日 夢
【小話:夢】
[2017年10月某日]
ーー夢を見た。
東丸と…央弥と、待ち合わせをする夢だ。
俺は約束の場所に早めに着いたから、適当なベンチに腰掛けてあいつを待っている。5分程度の遅刻は毎度のことなので慣れたものだ。
小走りにやってくる大型犬のようなヤツの姿を俺はスマホを弄りながらソワソワと待っている。
ーー今日は特別な日になる。
夢の中の俺は漠然とそんな事を考えているのだった。
少し照れるような、嬉しいような、そんな気分で。
夢というのは、脈絡がない。
俺はその後どうしたんだったか。
「辰真さん」
声が聞こえた気がして目を開けると自分の部屋だった。
今の声はもちろん夢の中で聞いた声だろう。
この部屋には俺しかいない。
でも、やけにリアルな声だった。
「……央弥?」
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、体を起こして呼んでみる。
部屋はシンと静まり返ったままだ。
まだ日も上がりきらない早朝、薄明るく照らされた机の上には昨晩から作業途中で閉じてスリープ状態になっているパソコンと参考書やペンやノートが散らかっている。
仕事に関する勉強をしている途中で、睡魔に勝てず諦めて布団に潜り込んだのだった。
夢の中の俺は確かに嬉しい気持ちであいつを待っていたハズなのに、妙な胸騒ぎがした。
ーーこんな事で電話をかけるなんて、からかわれるに決まってる。
次に会った時に、体調に異変がないか、それとなく聞いてみるくらいに留めよう…と考え直して俺はスマホへ伸ばしかけていた手を止めた。
まだ起きるには早いが、すっかり目が覚めてしまったな。
作業の続きでもしようと立ち上がり、ひとまず水でも飲むために冷蔵庫を開ける。
俺は夢で央弥とどんな約束をしていたんだろうか。
あんなにソワソワと落ち着かない気持ちで誰かを待つようなことは、子供の頃にしか無い。
たかが夢の中のことがいつまでも気になって、考えても仕方がない、と俺は意識的に他の事を考えるために水の入ったコップを片手にパソコンを開いた。
【夢 完】
▼ 2018.02.04(Sun) もう怖くない
【社会人編 09 もう怖くない】
[2018年2月4日(日)]
その日は珍しく全国的に雪が降ってた。
美容院に行ってる央弥と昼過ぎに待ち合わせて、食事でもしようかと話している。
窓の外を見て、電車が遅延するかもしれないから早めに出ようと思った。
一緒に暮らしてても、あいつが普段大学でどんな友人たちとどんな風に過ごしているのかは全く知らない。
忙しく働いている中で、それをたまにふと寂しく思う時もあるが、俺だって自分が会社で毎日どんな風に過ごしてるかなんて話さない。そんなもんだよな。
部屋を出て玄関の鍵をかける。
揃いのアクセサリーなんて付けるガラでもない俺たちにとってこのキーケースが唯一の"お揃い"だ。
ポケットにそれを仕舞って、駅へ向かって歩き出す。
あいつの事だから、また薄着でウロウロしてるんだろう。
カバンには予備のマフラーとカイロ。
俺がこんな風に世話を焼くのを、あいつがあんまり嬉しそうにするから。年下ってズルいと思う。
「もうすぐ電車乗る」と連絡を入れればすぐに既読になって着信が入った。
「……ああ、わかった。焦らなくていいから」
騒がしい央弥を制して、わかったからと電話を切った。
ホームへ滑り込んできた電車に乗り込みながら、パーマかけてるから暖かい所で待ってて!と電話越しに慌てていた声を思い出して笑う。
あんなデカい男が犬みたいで可愛いと思うだなんて、俺も大概どうかしてる自覚がある。
……でもそうだな、そう思えば初めて会った時からあいつの隣は安心できる場所だった。
馴れ馴れしくて、生意気で、余計な事にまで首を突っ込むからイライラさせられたものだが。
電車の中は暖房が効いてて少し暑かった。
ーーー
カフェで待っていると入ってきた央弥が俺を見つけて嬉しそうに笑った。
「葛西さん!って、あれ」
「なんだ、懐かしいな」
「なんでだろ、間違っちゃった」
「別に間違えてはねーよ」
大学時代の呼び方で呼ばれて、さっきまでのノスタルジーがまた蘇った。
「初めて会った頃もそんな髪型だったな、東丸」
「似合う?かっこいい?」
「はいはい」
まだ半分くらいコーヒーは残っていたものの、テイクアウトにしておいたので、そのまま持って行けるカップを手に俺は席を立った。
「食べたいものは決まったか?」
「それがずっと考えてんだけどさぁ」
やはり寒々しい格好をしている央弥の首に持って来たマフラーを掛けると驚いた顔をされた。
「辰真さんがマフラー持ってきてくれたら、イタリアン!って言うつもりだった!」
「人で勝手に賭けるな。んじゃ行くか」
「行きたい店ある!」
「任せるよ」
央弥との会話は自然で心地が良い。
一体何をそんなに話したのか、後になって思い出せないような事がほとんどだが、それくらい無意識にずっと喋っていられる相手はこいつくらいだ。
それと同時に、会話がなくたって気まずくならないのもこいつだけかもしれない。
親でさえ、一緒にいるからには無理をして話題を探して疲れたりするものだった。
「そういえば、学部とはあんま関係ない仕事にしたんだな」
「うん」
ピザを切り分けている央弥に気になっていた事を聞いてみた。こういう事は聞いても良いのかわからなくて少し緊張したが、全く気にした様子はなくてホッとした。
「割とそういうもんだよ、そっち系に行けたとしても非常勤だったりするしね」
「ふぅん」
「後でさあ、西口の方行ってもいい?」
「ああ」
ちょうど俺もこいつにネクタイでも買ってやろうと思っていた所だ。
でもそういえば、ネクタイのプレゼントって独占欲の表れだとか聞いた事がある気がしてスマホで調べた。
「どしたの?」
「いや……ネクタイは無しだなと思って」
「なになに!なんの話!?」
「黙って食え」
その後、少し服屋を周ったりよく分からない雑貨店を冷やかしたりして、あっという間に夜になった。
「休みの日は一瞬で終わるな」
「俺は明日からもほとんど休みみたいなもん!」
「それも残りひと月と少しだぞ」
よく味わっておけよと言えば央弥は冗談めかして頭を抱えたりした。
「大学の仲間たちとは仲良くやれてんのか?」
「それぞれ色々あってさ。別に喧嘩したとかじゃ全くないけど最近は集まれてない」
「お前が喧嘩するような奴だとは思ってないよ」
あのストーカー(?)野郎に聞く耳持たず殴られても、怒るどころか落ち着かせて事を荒立てないように気を遣っていた様子が目に焼きついている。
こいつはパリピだけど、問題児じゃない。
「何か食べて帰るか?」
「辰真さんはどうしたい?」
「お前の作った料理が食べたいな」
素直な気持ちでもあったし、たまには俺から甘えてみようと思ったのもある。
どんな反応をするかなと思ったけど、想像してたより普通に笑顔で「わかった!」と答えられて拍子抜けした。
しかし買い物を済ませて帰宅した瞬間に玄関で思い切り抱きしめられてビックリする。
「おま、まだ靴も脱いでない……」
「ここまで我慢したんだもん」
「ん、ちょ……」
もつれながら、なんとか靴を脱いで玄関を上がる。
央弥も俺に引っ付いたまま足だけで器用に靴を脱いで、更に壁に追いやられた。
「こら、待て」
「んー」
食材!冷蔵庫!と言えば央弥は渋々離れてくれた。
「辰真さんの方から甘えてきたくせに」
「ちょ、ちょっと喜ぶかなと思って」
「喜んでるよ」
「喜びすぎ」
別に嫌とかじゃないけど、こんな風に靴を脱ぐことも忘れて…なんて、メロドラマみたいで小っ恥ずかしい。
それに腹が減ってるのも事実だ。
「唐揚げ作ってくれるんだろ」
「うん」
「それで明日からまた仕事頑張るから、早く食べたい」
「そういう素直なの、逆効果だからね」
「サカるのは後で」
「後でいいの!?」
「唐揚げの味次第だな」
「頑張る!!」
張り切ってキッチンへ走って行った背中を見送り、やれやれと部屋の暖房を付ける。
コートを脱ぐと歩き回った疲れがどっと襲って来た。
「辰真さん、冷えてるでしょ。お風呂入っておいでよ」
「ああ、そうする……」
そう言いながらもソファに軽く腰掛けると、俺はすぐに寝てしまったようだった。
名前を呼ばれた気がして目を覚ますと央弥が立っていた。
「辰真さん、風邪ひかないでね」
「お前って案外心配性だよな」
「案外じゃないよ。いっつも心配してる」
「大丈夫だって」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんとあったかくしてね」
「お前こそな」
なんだこの会話。と思いながら目を開けると部屋の中だった。
――あれ、さっきのもまた夢か。
「辰真さん、起きた?」
「ああ…どれくらい寝てた?」
「一瞬だったよ。お風呂入れといた」
「ありがとう」
央弥といるようになってから、人混みに行く事も、暗い道を歩く事も、夢を見る事も怖くなくなった。
反対にこいつが危ない目に遭わないかっていう心配事は増えたけど、こうして目の届く所にいてくれるならそれでいい。
「さっさと仕事が始まって、ふざける余裕もないくらい忙しくなっちまえ」
「ええ!?急になんて事言うんだよ!人でなし!」
【もう怖くない 完】
▼ 2016.01 某日 呼び名
【小話:呼び名】
[2016年1月某日]
待ち合わせ場所に着くと珍しく央弥が先に来ていた。
辰真は時間を間違えたかと思って慌てて駆け寄る。
「悪い。時間、間違えたか?」
「なんで俺が先に着いてたらそんな慌てんの」
央弥はカラカラとおかしそうに笑って「俺だってちゃんと5分前に着ける時もあるよ」と言う。
今日は辰真が卒論の息抜きがしたいということで2週間ぶりのデートだった。
「忙しくなるって俺から言ったのに、急に誘って悪いな」
「なんで謝んの。そんなの呼ばれて嬉しいに決まってんじゃん」
卒論が終われば卒業までたくさん遊べるから、楽しみだね。と央弥が笑うので辰真は疲れていた気持ちがホッと癒される気持ちがした。
「あれから、何もないか?」
"あれ"とは2週間前の事件の事だ。
自身に憑いていたらしい伯母の霊に央弥が狙われてしまった事を辰真はずっと気に病んでいた。
ーー何事もなかったから良かったものの、俺のせいでもし誰かが傷付くような事があったら…。
央弥は気にしなくて良いと言うようにニッコリと笑った。
「俺は大丈夫!辰真さんこそ、あれからもう何もない?」
「ああ……」
急に"辰真さん"と、そう呼ばれてむずがゆくなる。
しかしそれに反応するのはなんとなくダサい気がして、サラリと受け止めた。
これといって親しい友人のいない辰真は家族以外に下の名前で呼ばれた経験がほとんどなかった。
「行くか。寒かったろ」
「手繋いで温めてくれる?」
ふざける央弥の背中を軽くパンと叩いて、辰真は不意にカイロを投げた。「お」と少し驚いた声を漏らしながら央弥がキャッチすると「ナイスキャッチ」と笑う。
「ホットコーヒーでも奢るよ、央弥」
下の名前で呼ばれることなんていくらでも慣れているはずの央弥は、辰真からそう呼ばれた瞬間に足元が疎かになるほど動揺した自分に驚いた。
情けなくも足がもつれて転びそうになり、しゃがみこんで顔を両手で覆う。カイロのせいかもしれないが、顔が熱くてたまらなかった。
「なにやってんだ」
「不意打ちはダメっしょ!」
「さっさと行くぞ」
「立てない!」
「置いてくぞ」
気を取り直した央弥はニコニコと満面の笑みで辰真に追いついてくる。まだその頬は赤かった。
「好きな人に名前で呼んでもらえるって、こんなに嬉しいんだね」
「恥ずかしいやつ」
酔った若者のようなフリをして肩を組んできた央弥に、辰真も気分良さそうに酔ったフリをして肩を組み返した。
【呼び名 完】
これからのこと
▼ 2018.02.16(Fri) 平和な日々
【最終章 01 平和な日々】
[2018年2月16(金)]
この頃、辰真さんはよく笑う。
伯母さんの事件以降、まさしく言葉の通り"憑き物が取れた"ように明るくなった印象はあったものの、本当によく笑ってくれるようになったなって思う。
初めて出会った時の印象が嘘みたいで、あの頃の俺に今の辰真さんの写真や動画を見せたらきっと信じないだろう。
俺はそれが嬉しくて、いつもいつも笑っていてほしくて、あの手この手で辰真さんが喜びそうな事を考えてる。
なんでかそんな事を考えてるだけで俺も嬉しくて、好きな人のために何かしたいと思えるだけで、こんなに幸せなんだなぁとか、JPOPの歌詞みたいな事をまた考えてた。
以前だったら行きたがらなかったような場所へも平気で行けるようになってきたし、寝ている時に魘されている姿を見る事も無くなった。
――このまま、怖いものの事なんかすっかり忘れて欲しい。
怖くなくなったとか、俺といたら平気とかじゃなくて、初めからそんなモノなんて無かったんだってくらい、当たり前に怖くない世界を生きてほしい。
その為に俺ができる事はなんでもしようって思う。本気で。なんだってやる。
いつのまにこんなに辰真さんが好きで、大事でたまらなくなったんだろう。キッカケなんて分からない。
初めから強い興味の対象ではあったけど、まさかこんな風に思うようになるとは思ってなかったはずだ。
ーー人生何が起こるかわかんないな。
それに、そんな気持ちに辰真さんが応えてくれて、そばにいさせてくれて、頼ってくれる。
それってほんとに奇跡だ。
泣きたいくらい幸せで、辰真さんも一緒だったらいいなって思う。
金曜は特に疲れて帰ってくる辰真さんを週末に目一杯癒してあげたくて、俺は何を作ってあげようかなと幸せに包まれた気持ちで買い出しに出た。
【平和な日々 完】
▼ 2018.03.04(Sun) これからのこと
【最終章 02 これからのこと】
[2018年3月4日(日)]
最近はひとりで出かける時も、怖いと思うような事がすっかりなくなった。央弥の言った「もう怖がらなくていいよ」という言葉が耳に残っている。
その言葉はどんなご利益のあるお札やお守りよりも、俺の心を強くしてくれた。
あいつの事について、これからも心配は消えないとは思う。けど、危ない事はしないって約束してくれたから、それを信じるしかない。
どちらかが疲れて余裕がなくてもどちらかがフォローできるような形で、俺たちは上手くやれてると思う。
もうすぐ央弥の卒業式がある。
俺は卒業と就職の祝いにネクタイを用意していた。
「ネクタイのプレゼントは独占欲の証」だなんて話もあり一度は取りやめたものの、やはりこれを贈りたいと思った。
ーー実際、独占欲なのかもな。
そう自嘲する。あいつがどこへ行っても人に囲まれてモテる事は知ってる。恋愛的な意味のみじゃないけど。
だからって別に浮気を心配してるとかではないんだけど、やっぱり、嬉しいばかりでもない。
独占欲で良い。だってそういう関係なんだろ、俺たちは。そう思った。
俺はこれからもあいつと一緒にいるつもりだし、もし何かで衝突する時があったって、一緒にいるためにどうしたらいいか考えていくつもりだ。
まだ俺は社会人になってたった2年だし、あいつはまだ社会経験すらないんだけど。
10年後、20年後、その先も……。央弥の隣にいるのは俺が良いなんて、本気で思ってるんだ。
卒業式の翌日の夜は空けておいてもらっている。
サプライズなんてガラじゃないから、何の話をしたいのかはすでに伝えた。
就職祝いを渡す事と、これからの事について改めて話したいって事。そうしたら央弥が嬉しそうに承諾してくれたから、俺も嬉しくなった。
【これからのこと 完】
▼ 2015.01 某日 デジャヴ
【過去の話:デジャヴ】
[2015年1月某日]
「葛西さん」
次の講義へ向かう道すがら、聞き慣れた声に呼ばれた気がして振り返った。
だがそこにはガランとした廊下が続くだけだ。
「……東丸?」
声の主を呼んでみるが、気配もない。
最近、不意に呼ばれる事が多すぎて空耳か?
妙に懐いてくる後輩の姿を思い出して苦笑する。
学部が同じわけでも、ゼミが同じわけでもないというのに、不思議なものだ。いや、こんなにも関わっているのは、あちらがしつこく絡んでくるからなので不思議でもないか。
普段は人付き合いが苦手なクセにそれを拒まない俺も、どこか居心地の良さを感じているのは間違いない。
謎の空耳はそれ以降もしばらく続いた。
大学内でも、家の近くでも。
あの声は間違いなく東丸なのだ。
そのせいか、あり得ない場所で呼ばれたとしても我ながら意外と少しも怖いとは感じなかった。
それどころか、どこか懐かしいような、ずっと前からこの瞬間の感覚を知っているような…そう、"デジャヴ"に襲われるのだ。
そういえば、少し前に東丸が俺のドッペルゲンガーを見るだなんて言っていたな。
まさか、あの時の呼びかけが今頃になって届いているのだろうか。だとしたらこの先もこうして過去のこいつの声だけが残り続けたらどうしようか……などと、あり得ない思考に自らで苦笑する。
「葛西さん」
「ん、なんだ今回は本物か」
「何それ?」
「いや、気にするな」
【デジャヴ 完】
▼ 2018.03.17(Sat) 最終話
【最終話 約束】
[2018年3月17日(土)]
約束の場所に、とうとう央弥は来なかった。
今日は央弥の卒業と就職祝いのついでに、ひっそりと2人だけで将来でも誓い合おうか……なんて恥ずかしい事を話して、少し前からわざわざ高級なレストランを予約していた。
――特別な日になる予定だった。
昨夜の、終電を逃したから2駅歩いて帰るというメッセージが携帯に残っている。
央弥からの連絡はそれが最後だった。
明け方に目が覚めて、あいつがまだ帰って来ていないことに気がついた時、友人との就職祝いに浮かれて酔いすぎて路上寝でもしているのか?と呆れながらすぐに電話をかけた。
数コールの後に応答があり、「電車が来た」とだけ、央弥らしき声が聞こえたかと思うと電話は切れ、それから通じなくなった。
何度かけても"この番号は現在使われておりません"というガイダンスが流れるだけだ。
それと同時に、自分の中から何かがスッポリと失われたような感覚があった。
いや……本当はもともと消えかけていた火が、完全に消えたような感覚と言った方が近い。
嫌な予感がする。しかし何も出来ることがない。メッセージは既読にならず、電話はもはや無意味だ。
警察に連絡はしたが、いい歳をした男が酔った後に半日行方が分からないだけでは何も動いてくれなかった。
俺は予約していた店の前で、央弥が現れるのを待った。
店が閉店時間を迎えても、待ち続けた。
店員に心配されても、構わず待ち続けた。
「電車が来た」って、なんなんだ。
電車が無いから歩いて帰ってたんだろ。
まだ始発も出てない時間だったぞ。
――お前、その電車に乗ったんじゃないだろうな。
認めたく無いのに、絶望が足元から這い上がってくる。
絶対に考えちゃいけない事なのに、頭に浮かんでくる。
もう怖がらなくていい。
それは、いつか央弥が言った言葉だ。
俺は、いつだってその言葉をお守りみたいに思って……。
「あいつ、持っていっちまったんだ」
俺の霊感を全部。
俺はほとんど呆然自失状態になりつつ、まだどこか冷静な部分で、これ以上待っても意味がないとなんとか自分に言い聞かせて、足を引き摺るように帰路を歩き出した。
――でも帰っても1人だ。
こらえていた涙が勝手に次から次へと溢れ出して、飲み会帰りで終電を急ぐ人たちの足元にポタポタと落ちる。
「あ、危ないことは…すんな、って…や、約束…っふ、う…ぅ…」
ーー何度も何度も言ったのに、願ったのに。
この手をすり抜けて、あいつはいってしまった。
嗚咽が漏れて、とうとう地面に膝をつく。
キーケースがポケットから転がり落ちた。それは俺があいつと確かに一緒に過ごした唯一の証拠だ。
一度心が折れてしまったら、もう立ち直れない。俺は人目も 憚 らず、地面にうずくまって大声を上げて泣いた。
いつか、こんな日が来てしまう事をずっと恐れていた。
ーーー
それから、道端でどれくらい泣いていたのか分からない。
いや、気付かないうちに少し寝ていたのだろうか。携帯の充電なんてとっくに切れていた。
夜中まで営業しているバーやラウンジのある繁華街だというのに、あたりに人の気配は全くない。
ということはおそらく、もうすぐ日が昇る時間なのだろう。
息も出来ないくらいに泣いて、体も喉も疲れ果てて、激痛がする重い頭を少し持ち上げると近くにティッシュと水のペットボトルが置かれていた。
通りすがりの優しい人たちが、よほどの事があったのだろうと情けをかけてくれたみたいだ。
俺はどこか他人事のように冷静になれて(自分の心を守るための防衛本能から、一時的な離人症のような状態になっていたのかと思う)ああ、泣きすぎて心臓が痛いな。と呟きながらフラフラと立ち上がった。
長時間ずっとうずくまって泣き叫んでいた体に久しぶりに酸素が巡るような感覚がして、身体中の関節が痛んだ。
置かれていた水を飲んで、ティッシュでボロボロの顔を拭いた。
まだ嗚咽が収まらず、ヒックヒックと子供のようにしゃくりあげてしまう自分をどこか遠くから眺めているような気持ちになりながら、しかし家に帰らなければと歩いた。
ここから家まで、歩けば3時間はかかるだろう。
更に今は体のあちこちが痛くてゆっくりしか歩けない。
それでも歩いた。
「辰真さん、ちゃんと帰って」と、央弥の心配する優しい声が聞こえた気がしたから。
ーーー
このごろ、俺はすっかり幽霊が見えなくなっていた。
それと反比例するように、央弥の霊感が上がっている事にも気が付いていた。
何が原因かは分からない。ただ、俺と関わったせいである事は間違いない。
足を引きずって、何時間くらい歩いたのか。
すっかり太陽が上り、途中で通勤や通学する人々とすれ違っては、親切な人に「大丈夫ですか」と声をかけられた。
優しい言葉に触れるたびにまた涙が溢れてきて、恥も外聞もなく、どうしようもなく泣いた。
なんとか家に帰る頃には太陽は上りきっていて、疲労と空腹で体の感覚がおかしかった。
俺は諦め悪くも、玄関を開けると全てが夢だったかのように央弥が飛びついて来てくれるのでは無いかという妄想に取り憑かれながら鍵を開けて、薄暗い部屋を見てまた泣いた。
ーーー
それからの事は、ぼんやりしている。
仕事をして、家事をして、取り繕って生きている。
ただ全てにぽっかりと穴が空いている。
もう怖いものを見る事はなくなった。
ーー辰真さん、風邪ひかないでね
ーー案外じゃないよ。いっつも心配してる
ーーちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんとあったかくしてね
「……わかってるよ」
あれから俺はずっとひとりで、電車が来るのを待っている。
【約束 完】
【旧題"怖い話はお好きですか" 終】