その他 一次創作
BL GL 恋愛以外も含め
一次創作をまとめます。
BL
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もくじ 作成中
その他 単発
ミカヅキと太陽
お互いに存在を認知してた隣のクラスの目立つ奴。
近付いたり離れたり、思春期といじっぱり。
▼ ミカヅキと太陽 前編
大事なことほど何故か素直に言えないっていうのはよくある話だと思う。俺だってそうだ。
今までそのせいで何度も失敗してきてるというのに、素直になるのはやっぱり気恥ずかしい。それに、思ってることを単純にそのまま言えばいいってわけでもないから、会話って難しい。
ここは俺の通っている大学の食堂。
そして空になった皿をスプーンでカチカチと叩きながら、友人にフラれた愚痴を零している途中。
「あーあ!何も言わなくてもわかってくれるような付き合いがしてーなぁ!」
俺だったら、相手に言葉なんか求めない。一緒にいてくれるっていうことが全部だと思ってるし、相手の気持ちなんてなんとなく感じ取れるもんだろう。
見えないものを疑ってたって何にも始まらないから。それなら信じる方が楽しく毎日が過ごせるってもんだし。
「またそんな理想ばっか…ケアって大事なんだぞ?」
「なんだよケアって!ケアが必要な付き合いってどうなわけ?逆に!」
「逆にって」
そんな風に騒いでいると突然「公共の場でうるせーよ」と後ろから叩かれて、振り返ると眠たそうな目をした栗毛の男前がいた。
「おわっ、出たな、たらしヤロー」
「別に誰もたらしてない。またカレーか」
「そっちこそまた蕎麦か」
詰めろと押されて席を動くと隣に我が物顔で座りやがる。
「礼の一つもないのかお前は」
「ここはみんなが使う学校の持ち物だろ。詰めて使うのは当然だし、所有者でも無いお前になんで礼を言わなきゃならん」
「譲ってもらった恩ってのはあんだろが!」
「どうも」
「よし」
「お前らいいのか、それで…」
向かいからツッコミが入ったけど無視しておいた。もくもくと蕎麦を食べる横顔を遠慮なく観察する。顔が整ってたら蕎麦食うだけでもサマになるんだなぁ…とか考える。
「あ、太陽さぁ課題終わった?」
「んーもうちょい」
「お前さ、ミツの顔見すぎ」
「だって俺こいつの顔好きなんだもん」
そう言うとチラリと不機嫌そうに目だけでこっちを見て、また箸を動かす。
「顔だけな」
付け足すとチョップされた。
「おーいミツ!」
「ん」
学食を出てすぐに仲間と思わしきチャラそうな集団に拉致られて行った眠そうな背中を見送って反対方向に歩き出す。
「太陽ってさ、ミツといつから仲良いの?」
「んー、高校が一緒でさ」
「じゃあ結構長いんだ」
「同じクラスだったのは2年の時だけなんだけどな」
ーーー
高校に入って、俺はそこそこスポーツが得意だったし、まあまあ真面目だったし、顔だって中の上くらいの造形で、自分で言うけど、普通に人気者だったと思う。
幅広く友達もいたし、放課後に毎日集まる仲間もいて、ギターやればモテるかと思ったくらいでなんとなく入った軽音部では頼まれてボーカルやったりして、充実してた。
さすがに同学年の全員を覚えてたわけではないけど、交友関係が広かったから顔と名前がわかる程度でよければ結構な数だったな。
その中で話したことは無いけどなんとなく気になってる奴はいた。それがさっき"ミツ"って呼ばれてた、2つ隣のクラスの金谷 三香月(かなや みかづき)だった。
中学から上がったばっかの時は今より背が低くて垢抜けてなかった…とは言え、あの容姿で頭が良くて、バスケがうまけりゃ本人が無口でも噂は知れ渡るもんだ。
クラスが離れてたから喋った事は無かったけど、当然のように俺もヤツの顔と名前は知っていた。
そんな金谷と初めて会話したのは球技大会のバスケで戦ったのがキッカケだった…のかな。俺はその時の事をこんなに鮮明に覚えているのがなんとなく気恥ずかしいんだけど。
「太陽!」
「そっち回れ!」
パスを出そうとした瞬間、近くにいないと思っていた金谷の手が狙っていたかのように自然に伸びてきて一切の無駄なくカットされてしまった。
「お、わっ」
「ノロマ」
このチビ!と思わず心の中で毒吐いたけど、金谷はそのままスピードを上げてあっという間にディフェンスを抜けていく。
「はーまじかい」
「ボヤけてんなよ太陽!」
「走れ走れ!」
後頭部を叩かれて俺も走り出す。
素人の集まりらしく、俺たちはポジションも何もなくとにかくボールを奪おうと一丸になって金谷を取り囲むけど、不思議なくらい相手にならない。
別に他のやつらの動きなんか大したことないのに、一人リーダー格の奴が凄いってだけでまるでチームワークが違ってくる。
俺たちが目の前のボールだけに必死になってる間にどんどんパスを回して翻弄された。
「おら!」
「っ!!」
どうにか一矢報いてやりたくて駆け出すと横から同じように飛び出してきたチームメイトと酷くぶつかってしまった。
「太陽!!」
あっと声を上げる暇さえなく床に叩きつけられるように転がって、打った顔が痛いやら摩擦熱でやけどした膝が熱いやら、なんか鼻血が出てる気もするし恥ずかしいし。
でも反射的に跳ね起きてぶつかった相手を探した。そいつは俺より大きかったし、ぶつかり方が良かったのか尻もちだけで済んだみたいだった。
「わりぃ…っ!大丈夫か?」
「俺は大丈夫だけど!太陽、鼻血…ってかすげえ顔赤いし!顔面から転けた!?」
「ああ、なんかもう全部いってぇー…」
俺どうなってる?と聞こうとして顔を上げると心配そうな顔をした金谷と目が合った。
だからってその時に何があったわけでもないけど、俺は保健室に連れて行かれて、鼻血が止まった後に病院に行かされた。まあ結果的には何事もなく、打ち身くらいで済んだんだけど。
「あ、金谷!」
次の日、校門で栗毛を見かけて思わず声をかけた。別に知り合いってわけでもないのに。
「ん…藤野。大丈夫だったのか」
迷いなく名前を呼ばれた事に驚く。
「俺の名前知ってんの!?」
「知ってる。お前、有名人だし。多分みんな知ってる」
「いやいや、有名人は金谷だろ!運動も勉強もできるし、キレイな顔してるし…」
って俺は本人を前にして何を言ってんだと思ったけど、言われ慣れてるのか、さほど気にした様子もなく金谷は俺をじっと見てきた。
「それなら藤野に関してだって、似たような噂を聞く。なんでもできるし、歌もうまいって…足も速いからバスケだって、やり方さえ知ればきっとうまくなる」
「あっ!それだよ、バスケ!悪かったな、俺のせいでなんか…」
「いや、決勝まで行けたし」
その言い方から、優勝は出来なかったんだなと察した。金谷のそういう言葉選びのクールさを格好良く感じた俺は、それで一気に金谷の事が好きになったんだった。
「あれっ!金谷、同じクラス!?」
だから、高2のクラス替えで自分の教室に入った時、しれっと金谷がいた時は無性に嬉しくてついはしゃいだ。
「名簿に名前あったから知ってるし」
「そんなんつまんねーから、教室に行ってみてのお楽しみにしてんだよ!」
でも金谷は相変わらず気怠そうな態度のまま俺をチラリと見てぼやいた。
「じゃあ今年は藤野と戦えないって事か」
こいつのこういう所が『上手い』よなといつも思う。相手をサラリといい気分にさせやがるから、もう。
「い、いいじゃんか!今年は一緒に優勝狙うって事でさ!」
「じゃあ徹底的に鍛えるから付いて来いよ」
その頃には金谷はバスケ部でレギュラーメンバーに当然入っていて、態度は素っ気ないものの話してみると案外人当たりのいい性格だから、人間関係も良好そうだった。
そうして気付けば俺たちは昼休みには一緒にバスケをして遊ぶようになって、くだらないことメールしたり、勉強を教えあったりして、まあ仲良くなったと思う。
文化祭では金谷がイケメンランキングで優勝したり、友達が多いランキングで俺が優勝したり。
「…お前さ、また身長伸びた?」
「成長期だな」
涼しくなってきても動いてるとまだ暑い。汗を腕で拭いながらペットボトルを持ち上げるとくらりと眩暈がした。
「ふー」
昼休みの練習は2年の初めからずっと続いてて、俺もいつのまにかバスケが楽しくなってて、やっば部活でレギュラーの金谷には敵わなかったけど、そこそこ付いていけるレベルにはなれた。
時々クラスのやつらも遊び半分で参加しに来るけど、毎日来るような事は無かったから基本的にいつも2人だった。
「今年の球技大会は最後まで参加すっぞー」
「目標が最低限すぎだろ」
隣に座った金谷の額にも汗が浮かんでる。
「そろそろチャイム鳴るな」
戻るかと立ち上がりかけた時、金谷が珍しくじっと俺を見るからビックリした。見慣れたとは思ってたけど、男前に見つめられると首の辺りがむず痒くなる。
それに悔しい事にチビだと思ってた金谷はこの頃には俺より少し大きくなってた。
「なに…」
「藤野ってさ」
ピクッと金谷が動いた瞬間、気の抜けるようなチャイムが鳴り響いて俺はなぜかほっとした。
「ほ…ほら、帰ろうぜ」
そうしてまた球技大会の日がやってきた。一年の時は金谷の事は顔と名前だけ知ってる他クラスの奴って認識だったのに、翌年には毎日顔を合わして、声を掛け合って一緒のチームでバスケしてるって、なんかすげー不思議な気分だった。
「太陽まじ凄くね?お前軽音部だろ?」
「昼休みに毎日練習してっから!」
「俺も行けばよかったなぁ」
「こいつらの練習って本気だから楽しくないんだよ」
「その面白さがわからんとはかわいそうな奴だな!」
「うっせぇ軽音部のクセに!」
「運良く2年はバスケ部のレギュラーが全クラスにバラけてるし、まじで勝機あるよな」
チームの奴らとそうやって笑いながら、次々と勝ち進んで行って、俺たちのクラスは早々と学年トップを手に入れた。
「でも次3年とだろ?しかもバスケ部が3人も揃ってる組だから結構ガチで来そうじゃね」
「て事はさ、これで俺ら勝っちゃったらやばくね」
……なんてなめた事を言っていたものの、さすがに本気で中高6年間もやってきた人が3人も揃うと付け焼き刃の俺じゃ手も足も出なかった。
「わっ…と!」
止めれると思っても簡単に抜けられる。
「おいっ、気をつけろよ」
お前アツくなったら猪突猛進なんだからなと転びかけた肩を金谷に雑に掴まれて、転ばないように踏ん張る。
「くっそぉ…」
「お前すげぇスピード落ちてる。一回休め」
「あと5分なのに!」
「ラストにもっかい出てもらうから。高井!出てくれ」
グイッと背中を押されてコートから出た。交代で入ってったクラスメイトを見送ってタオルを引っ掴む。
俺と同じ、それ以上に動き続けてるのに金谷はへばるどころか周りを気にする余裕さえ持ってるから悔しい。
「やっぱり3年は強いなぁ」
「太陽が抜けたから金谷に2人もマーク付いてるし、こりゃダメだ」
またあっちに点が入って、無意識にため息が漏れるのと同時に隣からも残念そうな声が上がった。
「あーっ、もう無理だよー」
「やだぁ」
可愛い女子2人組が熱心に見つめているのは金谷だった。周りを見てみると他にも似たような女子がコートの周りにいっぱいいる。
え、まさか全員金谷の…?
じっと見ていると片方の子と目があって、その子は恥ずかしそうに俯いた。ああ、金谷がどうというより、カッコいい先輩がいるから見に行ってみようという感じか。
「あと2分!」
「俺出る!誰か交代!」
コートに入ってすぐマークされたけど、少し休憩したから体が軽い。バスケの技術はまだまだだけど、瞬発力には自信がある。もう勝てない事はわかってたけど、最後の最後まで全力で走った。
「だーーっ!!」
「おつかれ」
「もう立てない!」
外の水道で頭から水を被って、体育館の壁に凭れてへたり込む。
「でも、やり切ったら気持ちいいだろ?」
「うーん年イチでいいや…」
「ほら風邪引くぞ」
腕を引かれたけど足が本当に痛いから立ち上がるのを拒否する。
「もうちょい…」
ふと視線を上げると金谷は濡れた髪をかきあげてふぅと息を吐いた。
「やっぱ俺、お前の顔好きだなぁ」
横顔まで整ってる。日本人のクセに。
「なんだよ急に。知ってるけど」
金谷は珍しく目を細めて笑った。
それから、高3になってクラスがまた別れても俺たちは相変わらず仲が良いままで、お互い告られたりしながらも2人で遊ぶ方が楽しくて断ったり、付き合ってみても長続きしなかったりで結局はほとんど一緒にいた。
そして1学期の終わり、少しずつ暖かくなってきた頃。
「あー、今度のテストまじ頑張る」
「なんで、成績そんな悪かったか?」
「50番以内に入れたら、新しいスマホに変えてもらえんの!」
「どの教科で?」
「総合順位!」
「国語さえ頑張ればいけるだろ、普段80番前後なんだからさ」
というか、頑張る理由は受験じゃないのかと突っ込まれて苦笑いする。
「んじゃ、またな!」
「あのさ」
「ん?」
「教えようか、国語」
金谷の家は素朴な一軒家で、部屋も一般的な男子高校生って感じの部屋だった。充電ケーブルとグチャグチャのままのシーツが放置されてるベッド、勉強するスペース分だけ守られて散らかった机。
半分くらい減ってるペットボトル。いや、それは片付けろよ、汚ねえな。
雑誌とか漫画もチラホラあって、俺の部屋と大した差は無い。まあこんなもんだよな。となぜか安心する。
「なあ、よく考えたら俺のとこと金谷のクラス、国語の先生違うくね?」
「テスト内容は一緒だろ」
「まあそうだけどさ」
そんなことがあってから、テストの後も俺はちょこちょこ金谷の家に遊びに行くようになった。
「じゃーん新しいスマホ!おかげで38位取れた!夏休みの写真撮りまくる!」
「俺も変えた。一緒になって勉強したからか俺もそこそこ順位上がったし」
「えっ何位?」
聞いても金谷は適当に誤魔化して教えてくれなかったけど、普段からまあまあ良いハズだからもしかしたら一桁台いってるかも。
「お前ってさ、そういうの自慢しないよな」
「単にすげーって言われるのが気恥ずかしいんだよ」
着飾るわけでもなく、嫌味なわけでもなく、さらりとそうやって言いのける姿に俺はまた憧れる。
「金谷って大人だよなぁ…かっこいいし、そういう所も」
「お前ってさ、すぐ俺のことかっこいいって言うよな」
「うん」
なんだこの会話と思いながらパックジュースをズココ、と吸うと手に触れられる感触がして視線を上げた。
「ん?」
思ったより近くに金谷の顔があってビックリしたけど、何か言うより先にキスされて思考が一瞬だけ停止した。
「…なに?」
「いや、別に」
本当は心臓がバックバクだったけど、金谷があんまりにも普通にしてるから負けたくなくて、キスくらいこれっぽっちも気にしませんけどという顔でまたパックジュースを飲み続けた。
それからは特にそんな事件が起こることもなく、俺たちは変わらずに仲が良いままだったし、部活、バイト、たまに授業をサボって遊んだり…と男子高校生らしく過ごした。
予備校に通ったり、部活の引退ライブをやったりと受験生らしいイベントもあったけど、元々そこそこ真面目にやって来た俺たちは病むほど勉学に追い込まれる事もなく頑張れていた。
「太陽お前もう学校決めた?」
「んー…S校かT校で迷ってんだけどさ、家から通いやすい方ならS校なんだよなぁ」
「オープンキャンパス行ったん?」
「行ったけど、よくわかんないし」
うーん、と机に倒れると腕をトントンと突かれてやる気のない返事を返す。
「金谷は?」
「なんで?」
「なんでって、仲良いじゃんお前ら」
「良いけど、大学決めるのはそういうんじゃねーしょ」
別の大学を選んだとしても俺たちはこのまま友達でいられる自信があったから、特に金谷の志望校を知ったからってどうこうする気は俺には無かった。
「まあとりあえず第一志望はS校かなぁ」
文化祭も終わって、とうとう受験一色って感じになった3年の教室にはピリピリした空気が漂っていたけど、最後のイベントである球技大会の時期がやってきて、今までに無い熱量でみんながチーム決めやら応援旗の準備をしている様子を見て、金谷と初めて話した試合、去年の3年と戦った試合を思い出した。
部活の引退ライブだって燃えたし、文化祭だって体育祭だって居残ったり打ち上げしたりして心の底から楽しんだけど、俺にとっては学校生活の中で間違いなく球技大会が一番の思い出だなぁ。
「今年の球技大会は太陽と金谷が離れちまったから、どうなるかわかんないな」
「俺だけじゃ当然あいつには敵わないけど、今年はラッキーな事に他のバスケ部員がウチに固まってるからな」
「確かに、2年からレギュラー張ってる奴が多いなうち」
なんて話してると横から名前を呼ばれた。
「なあ太陽!バスケとバレー掛け持ちできる?」
「え、いいけどなんで?」
「3年は自由参加だからさ、受験大変なやつは不参加で人手足りねーの。太陽スポーツ好きだろ?」
「おー、そういう事なら!」
……なんて安請け合いして、去年バスケだけでくたくたになったことをすっかり忘れていた。
バスケの第1試合が終わって、バレーもなんとか勝てて、休む暇もなくまた次のバスケの試合のコートに移動する。
「金谷たちも勝ち進んでるって。俺ら次勝ったら当たるぞ」
「あ、そっか……なんでか俺、金谷と戦うのは最後だって思ってた」
「俺も」
実質それが決勝みたいなもんだなぁと話しながらコートに入ると、結構な声援が聞こえて嬉しくなった。
思ったより疲労が出てきてたけど、人数が足りないから休むこともできずにそのままバレーをやってる第1体育館まで走って行く。
でも次で金谷と当たるなら、そこが俺にとっての本番だからもういいかな、と思って体力を温存することとか考えるのはやめた。
「太陽ー!もう始まる!」
「おう!」
「そっちどうだった?」
「勝った!」
バレーコートに着くとすぐ開始の笛が鳴ってボールが上がる。
お互いに1セットずつ取った頃、俺は高く上がったチャンスボールに気を取られて、横のコートから転がってきたボールに気付かず思い切りそれを踏みつけてしまった。
「藤野!!」
斜め後ろから金谷の声が聞こえた気がしたけど、もう遅くて。
「っあ!?」
ぐるっと視界が回って背中から床に叩きつけられる。バンッ!と大きな音がして全身を強く打った。
「太陽っ!!」
「おい、頭打ったか!?」
「うぐ…!」
頭も痛いけど、咄嗟に付いた左手の方が激痛と呼ぶにふさわしかった。痛みでうまく息もできない。
「っは…!はっ…はぁ…っ!」
「動かなくていから!先生!!」
起き上がれもせずに蹲ってるとすぐ先生たちが駆け寄ってきた。
「どんな転け方した?頭は打ったのか?」
「意識はある?藤野くん!」
「頭は…軽、…腕が、っうー…いてぇ…」
痛みのせいか、痺れて腕の感覚が無い。一体どうなっているのか見るのも怖くて目を閉じると右肩に誰かが触れた。
「俺が保健室連れて行きます」
金谷の声だった。軽々と抱き起こされて慌てる。
痛みのショックで腰が抜けてるのか、情けないことに膝に力が入らなかったけど、ほとんど抱えられるような勢いで立たされた。
「ちょっ…待っ、金谷!バスケ…」
「こんな時に何言ってんだ」
「い…から、お前は行けって!」
そう言ったのに、金谷は怒ったような顔で「もういいから」と言い放って、それ以上なにも聞いてくれなかった。
結局、俺の左腕は変なつき方をしたせいで小指が折れてて、肩が外れてた。利き腕じゃなかったのが幸いだったけど、しばらくは不便な思いをした。
そうして俺の高校生活は幕を閉じて、後は受験の思い出だけだ。
で、合格の報告に高校に行ったら金谷と鉢合わして、まさかの同じ大学だったわけーーー。
「おーい、太陽?」
「おおっ!俺いますげえトリップしてた」
走馬灯みたいに瞬時に思い出された沢山の高校時代の出来事をもう一度噛みしめる。
俺たちの間にあったあの妙な空気は一種の熱病のようなもので、お互いに思春期っていう独特な時期に流されてしまっただけの産物なんだ、多分、きっと。
すっかり忘れていた日々を少し浮ついた気持ちで反芻すると胸がざわめいたけど、だからって何をどうするわけでもない。
「仲良かったけど、大学が一緒だったのはたまたま!お互いに志望校言ってなかったもんよ」
「それって仲良かったのか…?」
「あいつ、こっちから聞かない限り自分の事話さないしさ、あの頃は俺もカッコつけたい時期だったから、俺ばっか興味あるのが悔しくて聞かなかった!」
「ガキかよ」
でも、本当はちょっと寂しかった。お前はどこにするんだ?って、一言くらい、聞いてくれてもいいじゃん。
「今はあんま一緒にいねーの?」
「取ってる講義が全然ちがうからなぁ」
「ミツはモテるしな」
「俺もそこそこモテますけどー?」
「はいはい」
さすがに広い大学ではどこからともなく噂話が流れてくるほどでは無かったものの、友達伝いで「また告られたらしい」くらいの情報はちょこちょこ入ってきた。
それも、なんとなく名前がわかるレベルの美人とかばっか。
「そりゃあるんじゃね?イケメンに告白するにはそれ相応の基準値ってもんがさ」
「女の世界こえー」
「んで、実際のところミツって今付き合ってる人いんの?」
「え、いないんじゃね?」
多分だけど、と付け足す。
「じゃあさ!今度の合コン誘ってくれ!レベ高い女子と合コンしてみてぇ!」
金谷目当てでもいいのかよ、と突っ込んだけどワンチャン有るかもと騒ぐから聞くだけ聞いてみると返事をした。
「いいよ」
「えっ、いいの?」
硬派気取ってるとか言うつもりはないけど、なんとなくこういうの苦手そうなイメージだったからサラッとした返事に驚く。
「藤野も行くんだろ?」
「行くんだと思うけど…」
ハッキリと誘われたわけでは無いが、話の流れ的に俺は頭数に入れられてる事だろう。
「じゃあいいよ。俺お前と喋ってるし」
「俺は女の子と話したいですけど!?」
「あ?」
好きな顔に覗き込まれて思わずそれ以降の言葉を飲み込む。
「…ほんとさ、わかってんだろ」
「この顔に生まれて得したなぁ」
普段からその恩恵を感じまくってるくせに、あえてこのタイミングで言ってくるところに嫌味を感じたけど反応するのもカッコ悪いから無視して合コンの主催者に『金谷行くってよ』とメールを打った。
「太陽くん、酔った?」
細い指が肩に触れて、ふと気がつく。いつのまにかちょっと寝てたみたいだ。
「んー、すげぇ眠い」
「まだ始まったばっかりだよー?」
あんま飲む事ってないから、ちょっと飲むとすぐ眠くなる。隣の金谷は平然とした顔でちびちびグラスを傾けながら携帯を弄ってる。
「何してんの?」
「別に」
そう言う手元は明らかにパズルゲームか何かしてて、こいつ…と呆れた。
「ミツくんと太陽くんって2人ともタイプが違うけどイケメンだよね!本当にいま彼女いないの?」
ど直球な質問が来てちょっとビビる。これが肉食系ってやつ…?あんまりあからさまに目をギラつかされると引いてしまう俺は男として失格だろうか。
「ま、まあ!そうじゃなきゃココにいないっていうか、な!」
「まあ」
金谷は視線も上げずにやる気のない返事を返す。なんでこんな機嫌悪いんだ?いつもならもうちょい愛想良いのに。
「トイレ。藤野ついてきて」
「え、わっ」
グイッと右腕を引かれて慌てて立ち上がる。
「金谷?なんか機嫌悪い?」
「なんで」
案の定というか、行き先はトイレじゃなくて店の外だった。店の裏の道に入って立ち止まる。
「そう見えるからだけど」
じゃあ気分でも悪いのか?と俺の腕を掴んだまま離さない金谷の顔を覗き込んだ。
「お前が…いや」
狭い路地だから自然と距離が近付いて、普段しないような匂いがした。
「俺が何?てかお前香水つけてる?」
そう言った瞬間、あまりにも自然にキスされた。流れるように一瞬の事すぎて、勘違いかと思ったけど確実に柔らかい感覚がくちびるに残ってて、何か考えるよりも先に体が勝手に弾かれるように逃げ出した。
「酔ったから帰る」と返事も待たずに鞄を引っ掴んで、足りなかったら請求してくれと五千円を机に叩きつける勢いで置いて店を出た。
金谷はまだ路地にいるのか、すれ違わずに済んだ。
高校の時と違ってちっとも取り繕えなかった自分に驚いたし、金谷が何を考えてるのかも分からなさすぎて一晩中悩んだけど、窓の外が明るくなっても何も解決しなかった。
「太陽!」
「おー、ごめんな昨日…」
「大丈夫か?すげぇ顔してんぞ」
金谷に出くわしたくなかったからコンビニでパンを買って、ベンチで項垂れてると声をかけられた。
「で、何を喧嘩したんだよ」
「別に喧嘩したわけじゃ…」
「まあまあ、詳しくは聞かねーけど、とにかく気にすんなって!ミツ酔ってたみたいだし!」
「は?」
何やら、金谷はあの後フラッと戻ってきたかと思うと、水を飲んで「間違えた」と呟いて、それから最後まで寝てたらしい。
何を間違えたら俺にキスするんだよ。ああでもそっか、酔ってたのか。
俺は心の底からホッとして一気に気が抜けてしまった。一晩中悩んだってのに、そんな答えだったとは。あいつあんな風に酔うのか。一緒に飲みに行った事なんかなかったから知らなかった。
だから俺はあいつの粗相を優しく許してやることにしたんだ。
▼ ミカヅキと太陽 後編
「あ、太陽くん!ちょうどいい所に!」
質問したい事があったから普段行かない側の講義棟に行くと、なんとなく見覚えのある子に話しかけられた。
「……あ!昨日の!えーと!」
「その反応は忘れてるな?女子側の幹事のユイだよ!こんなとこでどしたの?ミツくんに用事なら私、次同じ講義だけど」
名前を聞いてこの子との昨晩の会話を思い出す。
「あー思い出した!あ、いや、こっちに来たのはたまたまでさ」
「そうなの?仲直りしに来たんじゃ」
なんて話してるとちょうど向こう側から金谷が歩いてくるのが見えた。なんとなく気まずくて立ち去ろうか悩む。
「べっ…別に喧嘩したわけじゃなくて」
「そうなの?昨日の太陽くん凄い勢いで帰っちゃったから、ふたり何かあったのかなって…あ、おはよ!」
俺の視線に気付いたのか、その子は振り返ると嬉しそうな声を出した。金谷の事が好きなわけではないらしいけど、やっぱイケメンを見るとテンションは上がるんだな。
「喧嘩なんかしてない。てか俺あんま覚えてないし…酔ってたから」
なんかしたならごめん。と素直に言う金谷に俺はそれ以上言及もできず、平静を装って「別に大したことはねーよ」と返した。
「ふーん」
「なんだよそれ」
まじでなんだよ。俺ばっか悩まされて。なんなんだよ。
「太陽くん、あのね、話し中にごめんなんだけど…」
「うん?」
これ、と差し出された紙袋を反射的に受け取ろうとすると、急に金谷が俺の右腕を掴んで歩き出した。
「うわっ、ちょ…!ごめん、また後で聞く!」
そんな掴まねーでも「来い」って言えば逃げたりしないってのに、痛いくらいに握られて胸がザワついた。
人気のない校舎の影でようやく手を離されて立ち止まる。
「なんだよ、なんかあんなら口で言えよ」
「何も言わなくても分かるような付き合いがしたいんだろ」
「い、言わなきゃわかんねーこともあんだろ」
「俺が今考えてる事、まじで言わなきゃわかんない?」
なぜか怒っているように威圧的な態度の金谷にこっちだってイライラしてきた。
「わからねーに決まってんだろ!なんで俺が怒られなきゃいけねーんだよ!わけわかんねーのは金谷だろ!」
「まじで俺が昨日のこと忘れてると思ってんの?」
「んなっ」
「動揺したフリのひとつでも見せればいいのに」
立ち去ろうとしたけどまた右手を取られて、今度はもう片方の手で顎を掴まれた。
そのまま金谷の顔が近付いてきて、慌てて突き飛ばす。
「な、なんなんだって!だから!やめろよ!」
「何も言わなくたって分かれよ」
「わ…っわかんねえよ!それとこれとは別だろ!!」
「別じゃねーよ」
更にグイッと押されて、思わずよろける。校舎の壁に背中がぶつかって追い込まれた。
金谷は俺が怪我をしてから左腕を触らない。一度関節が外れたら、クセになって外れやすくなるからだって言ってた。
今、俺がもし「痛い」と言えば、すぐに解放されるだろうけど…。
「何も言わなくても通じるなんてのは甘え。お前は今まで真剣に恋愛してこなかっただけだ」
「……そうかもな。だったらお前はそんな最低な奴になんで何回もキスするんだよ」
あ、聞かない方がいい事を勢いで聞いてしまったな。と思った。俺はこの事について、"あの時"からずっと意識的に目を逸らし続けていたのに…。
見下ろしてくる金谷の鋭い視線から逃げられない。
「本当にわからないなら教えてやるよ。お前のこと友達だなんて、もうずっと思ってない」
絶対にわざと俺が傷付くような言葉を選ぶ金谷にこっちもついカッとなった。
「い…言うならハッキリ言えよ。いっつもいっつも周りくどい事して、周りくどい言い方しやがって」
「こっちの台詞。好きだとかカッコいいだとか散々言って、無防備に両手を広げて近寄ってくるような真似しといて、いざとなったらビビッて逃げてばっか」
「お、俺はそういうつもりで言ってたんじゃ…」
「じゃあどういうつもりだよ!!」
初めて金谷の怒鳴り声を聞いた。
俺は心臓がギュッと縮まるような気持ちがして、口から何も言葉が出てこなくなった。
金谷は俺を壁に押し付けて俯いたままでいる。後頭部しか見えないから表情はわからない。
「…っ、は…」
「怒鳴って悪い。でも、そういうことだから」
心臓がバクバク鳴って、怖がってるわけじゃないのに勝手に目に涙が溜まってきた。かっこ悪い。ビックリしたせいだ。
しばらくの沈黙の後、パッと手を離されたかと思うと金谷は黙って立ち去っていった。俺も黙ったまま、呼び止めることもしなかった。
ぼんやりと構内を歩きながらスマホで時間を確認しようとして、いつの間に連絡先を交換していたのか、さっきのユイちゃんからメッセージが入っていた事に気付く。
昨晩の時点でも話していたので覚えていたけど、どうやら幹事のやつが好きらしくて、セッティングのお礼と称してプレゼントを渡したかったらしい。
俺を通すより直接渡した方が恋が進展する気がするなあ。なんて考えて"あいつならこの時間、ゼミにいるよ"と返事を打ってから、ガックリと項垂れる。
こんな俺が何を偉そうに…。
金谷の気持ちに、俺は本気で気付いていなかっただろうか。本当のところは自分でさえわからない。心の奥底ではわかっていたのに、わかってないフリをしていた気がする。
――好きだとかカッコいいだとか散々言って、無防備に両手を広げて近寄ってくるような真似しといて――
図星…だった。俺のそういう発言で、あのポーカーフェイスが少し嬉しそうに緩む瞬間にいつも優越感があった。
俺だけが金谷にこんな表情をさせられるんだよなって、思ってた。
そのくせ、あっちから踏み込まれたら逃げ続けてきた。全部事実だ。俺って性格悪いな…。
「……だって」
だって付き合ったら、きっといつか終わりがくるから。
「終わりたく無かったんだよ……」
ずっと。永遠に仲良しで、一緒にいたかったから。
ーーー
あれから、藤野は俺の前から姿を消した。周囲にもバレバレなレベルで、あからさまに避けやがる。
……ムカつく。この期に及んで、まだ誤魔化すつもりか。
もう元には戻れないし、戻る気もない。進むか終わるか、決めるだけだ。それから、俺は終わらせるつもりなんか無い。
「ミツ!こっち空いてるぜ」
「ん」
学食で知った顔に呼ばれるが、そこにやはり藤野はいない。俺の視線が無意識に軽く辺りを見回したのが分かったのか、そいつは気まずそうに笑った。
「太陽はまだ逃げてんだよなぁ」
「やっぱあの日ケンカしたのか?なんかごめんな…俺が太陽にミツの事誘って欲しいって頼んだんだよ」
「いや、それはまじで関係ないから」
「気遣うなよ」
「そっちこそ」
とはいえ、このままにさせるつもりはない。あいつの取ってる講義は全部把握してる。授業終わりは確実に捕まえられるタイミングだ。
人目につくから最終手段にしておいてやったんだが、こうも避けられるなら仕方がないなと食事を終わらせてから普段は行かない学舎の方へ足を向けた。
タイミング良く講義が終わる時間だったので、出てきたところに正面から話しかける。
「おい、藤野」
「うわっ!な、なんで」
「来い」
腕を取ろうとしたけど避けられた。
「に、逃げねえよ」
「散々逃げてたくせに」
出入り口のすぐ近くでそんなやりとりをしていると邪魔だと言わんばかりの視線に晒されたので、俺たちはさっさと移動する事にした。
「で、どうすんだよ」
「……」
構内にあるカフェで藤野の好きなアイスラテを買ってきて渡してやる。人に会話を聞かれないよう、目立たない影になっている場所を見つけて並んで座ると、ようやく腹を括ったのか藤野は大きなため息をついた。
「このまま疎遠にして、逃げるつもりか?」
「わかんねえ」
「それで良いのかよお前は」
「だって…好きなんだもんよ。俺だって」
思ったより簡単に素直な言葉が飛び出して驚く。
「だったらそれでいいだろ」
「よくない!」
「はあ?」
今度はなんだと、俺までため息をつきそうになる。
ここまでお膳立てしてようやく素直になれたってのに。
「だって、関係性に名前をつけたら…いつか終わりが来るかもしれねえじゃんか」
「終わらねえよ」
「わかんねーだろ!」
「なんでだよ」
「俺、今まで彼女とロクに長続きしたことないもん」
藤野の言葉に思わず鼻で軽く笑うと睨みつけられた。こいつまじで分かってないのかと呆れる。
「そりゃお前、俺の事が好きだからだろ。全員にバレてたのにお前だけが気付いてないんだもんな」
「はあ!?嘘だろ!!」
「嘘じゃねーよ。お前の元カノにどれだけ恨み言を聞かされたか」
嘘だ!!と騒いで頭を抱えた藤野に有無を言わさずキスするとすっかり大人しくなった。
ーーー
今日は、久々に三香月に会える日だ。一体いつぶりだったかと思って、スマホのスケジュールをぼんやりと見返していると実に三ヶ月ぶりだった。
「太陽」
「わっ!こっちから来ると思ってた」
「そう思ってると思ってこっちから来た」
「イタズラすんなよ!」
大学を卒業して就職した俺と三香月は簡単には会えない距離に離れる事になった。
このご時世、ふたりとも無事に就職出来ただけで喜ばなきゃいけない。中距離恋愛になるからってなんだというのか。
それでもやっぱ久々に顔を見たら、もっと普段から一緒にいたいなと正直な所、思う。
「会うたびに久々だから、せっかくなのにしばらく照れ臭いんだよ…」
「時間は有限だから照れてる暇があったらお前の好きな俺の顔面を堪能しておけよ」
「自分で言うなし」
「暑すぎ。早く行こうぜ」
新しいスーツを買うと言うとちょうど帰って来れる日だったから一緒に行くと言うので、こうして待ち合わせたのだが…。
「え、三香月も買うの?」
「まあいつまでも新卒のリクルートスーツじゃな」
「でも普段から着るわけじゃないだろ?」
「いいじゃん」
お揃いのネクタイでも買おうと思ってるんだけど。だめ?と言われてパッと目を逸らした。こいつ、普通にこういう事言うよな。昔からだけど。
クールなフリして全然隠さねえんだから、やっぱり"たらし"だ。
「あ、太陽…もう今年の申し込みは終わってんだけど、来年の夏にさ、ちょっと合わせて休み取ってコレ行かね?」
そう言って見せられた画面には短期クルーズの案内。ちょっとした旅行と変わらない値段で海の旅が楽しめるパック商品で、いいよなぁなんて話してたのを覚えていたらしい。
「……来年も一緒にいたらな」
別に疑ってるとかではないけど、それでも来年も再来年も当たり前に一緒にいるかどうかなんて、わからないと思う。
今だって、こうして数ヶ月に一度しか会えないわけだし。相変わらずこいつはモテてるみたいだし。
「まじで信用ねーよな、俺」
「そういうんじゃないけどさぁ」
「良いこと教えてやるよ」
立ち止まった三香月を振り返ると、手招きされたので耳を寄せた。
「辞令が出た。来期からこっちに異動になる」
「え」
「一緒に暮らさね?って言いに来たんだよ、今日」
まだ内示だけど。と付け足して先に歩き出した背中を走って追いかける。
「まじ?」
「まじ」
「……そっか」
嬉しくて思わずニヤけるとジロリと睨まれた。
「てか、この際だから言うけど」
「な、なんだよ」
「大学被ったの、偶然じゃねーから。お前こそ、俺の知らねーとこで勝手にモテたりしたらどうなるか分かってんだろうな」
俺はその言葉に一瞬脳内がハテナだらけになった。そして遅れてその意味が理解できてきて、顔がカッと熱くなった。絶対に今、真っ赤になってる自信がある。
「俺を甘く見んなよ」
「は…、はあ!!?お前っ、まじ…!バカじゃねーの!」
「だから言ってんだろ、終わらねえって。お前が終わらせない限りな」
「お前…お前って、さてはずっと昔から俺の事大好きだな!?」
たまにはやり返して真っ赤な顔でも拝んでやろうと思ったのに、三香月は全く照れた様子もなく嬉しそうに笑った。
「当たり前だろ」
戦場の猫
※差別的表現があります。
家柄に反抗する頑固者×戦場でひとり生き残った亜人
▼ 01.暗闇は彼らの世界
※差別表現、残酷な表現があります。
小さな島の小さな森、今にも壊れそうな急拵えの小屋の中、武装した男たちは焦燥した顔つきでそれぞれ頭を悩ませていた。
いくらかの沈黙の後、1人の精悍な若者が、額を組んだ手に押し付けたまま怒りを堪えた声でぽつりと漏らす。
「じゃあ……どうするんです、兵を全て見殺しにするのですか」
それを口火にもう1人の若い兵が立ち上がった。
「アラタ少尉の言う通りです!こんな話し合いはもう無意味だ!ユリノ中尉、今すぐに撤退を!」
バッ、と見つめられた穏やかそうな男は机の上で組んだ手を見つめながらガクリと肩を落とす。
「……無理だ。できない」
「中尉っ!」
「やめろイクサ」
「ですが!」
「イクサ!!」
「失礼します!」
その時、慌てた様子で1人の兵が飛び込んできた。右腕を地面と平行に指先まで伸ばし、引き寄せて左肩の前でグッと握りしめる。それが彼らの敬礼だった。
「良い、どうした?」
「はっ!化け猫どもが東より伝達を持って来ました」
そのまま兵士はそう報告し、指示を待つ。
「それは本当か!」
安心したような声色でユリノはそう言って深く椅子に座り込んだ。横でアラタは慌てて机に広げられた地図を見下ろす。
「イクサ、そいつらの隊長を連れて来い」
「はい」
草木の生い茂る密林の中、月明かりすら見えない暗闇で小隊は息を潜め朝を待っていた。
「ヨイ、ヨイ」
「イクサか?どうなった、撤退は」
見張りをしていたヨイと呼ばれる大男は期待を隠せない声で尋ねた。
「状況が変わった、第五部隊だ」
だがその言葉にすぐ険しい顔をする。
「化け猫どもが?」
「こら、もう到着してるらしい。大きな声で言うなよ」
「おっと」
イクサはそれを咎めて辺りを見回した。だが小さな灯り一つではろくに何も見えない。
「おーい、この辺りにいるのか?」
この暗闇では足元さえ覚束ない。少し歩けばすぐに木の根に躓き転びそうになる。イクサは慎重にゆっくり歩きながら小さく声を掛けた。
「おーい……」
「わざわざ来なくても、呼べば俺たちから行きますよって」
「わっ!」
そんなイクサの真後ろに現れた小柄な少年は、軽い口調で「お呼びですか」と笑った。
「ああ、どうも……君たちの隊長は?」
「いるよ、そこに」
指さされた方向にイクサが灯りを近付けると、白い髪を黒い帽子と、更にフードで隠した男が気配もなく立っていた。
「ど……どうも」
「ども」
男はフードを深く被り、イクサと目を合わせもしない。
「中尉がお呼びです」
「はいよ」
歩き出した2人の後ろから少年がついて来る。
「てつ隊長…」
「お前さんはここで待ってな」
隊長はそう言って口元で笑うと再び歩いて行った。
アラタは第五部隊の隊長を見て驚いたようだった。明かりの元で見ると彼はまだ若く、とても一小隊を率いているようには見えない。
「君が……第五部隊長?」
「ええ、てつって名前です」
笑う口元にもしわ一つない。
「アラタだ。あんた、いくつなんです」
「25さ、これでもね」
年波もいかぬ子供に見える。アラタはそう言いかけたがやめた。だがその意見は言われ慣れたものなのか、てつは苦笑して冗談まじりに敬礼して見せる。
「で、アラタ殿。俺たちは何をすればいい?今着いたばかりなんで本当は休憩が欲しいところですがね」
てつの問いにアラタはすぐ地図を見下ろすと眉を寄せた。
「悪いがすぐ出動してもらう。今晩の内に退路を稼ぎたい」
「撤退かい」
「ああ、このままだと…全滅だ」
すると沈黙していたユリノが異を唱えた。
「だめだ、撤退は許されない」
「中尉!しかし…」
「ここで撤退してどうなる、我が国は……」
ここは、世界の端にある小さな田舎の島国だ。そして敵は突然海の向こうからやってきた。南北に長いこの国の南の端、そこに浮かぶ小さな島へ。
そこに送り込まれた防衛部隊の兵士はおよそ一万と五千ほど。だが奮闘虚しくあっという間に敵勢力に押され、半数は撤退、残された兵士たちの現在の生き残りは400余り。
それも各個小隊バラバラになり、この第三部隊は密林に追い込まれ、どこに敵がいるのかわからない状況で兵士たちは疲弊しきっていた。
アラタはこのまま密林を抜け内陸へ撤退をと言うが、ユリノが聞き入れない。彼が言うには「ここで我々が食い止めるのだ」と。
「中尉、はっきり申しますともう私の部隊に戦えるものはおりません!半数は怪我人、皆々疲弊しきり、士気も落ち……」
「だが撤退してどうなると言うんだ、その先にも敵軍は回り込んでいるかもしれん」
「ですから、この化け猫どもを……っ、失礼」
実は第三部隊は四方とも敵に囲まれ、もはや既に退路すら絶たれたと同然だった。だがそこに現れたのがこの第五部隊。
「で、俺たちはどうしたらいいんですかい?早くしてくれねえと動けなくなりますぜ」
彼らは「化け猫」と呼ばれる特殊部隊だった。
「東に向かおう。第七部隊と合流するんだ」
「ですが中尉、西を破ればすぐ密林を抜け本隊と合流……」
「森からは出ない方がいいと思うな」
アラタの言葉にてつは軽い口調でそう呟いた。
「まあ、ただの勘だけど」
「くそっ……ケモノめ」
東へと走り去った第五部隊の足音がすっかり聞こえなくなってからアラタは悪態をついた。
「隊長、指示を」
兵士の言葉に頷き、振り返るとアラタは灯りを頭上に掲げる。
「第三部隊!変わらず朝まで交代で休憩だ、化け猫どもが道を開く。明日の朝東へ向かい第七部隊と合流する」
兵士たちは敬礼して再び持ち場へ戻った。
第五部隊が「化け猫ども」と侮蔑の視線を向けられるのは、彼らの特殊性ゆえであった。この島で時折生まれる"ヤモク"と呼ばれる亜人で編成されている彼らは、まるで猫のように夜目が利き、鼻が利き、耳が利く。
耳は進化していて大きく、その目は闇の中でわずかな光を反射させギラギラと不気味に輝くのだ。
そして彼らは日に極端に弱く、日光に触れているとたちまち衰弱死してしまう。それでなくとも寿命が短く、30まで生きられるものはいなかった。
人々はこの長い歴史の上で彼らを忌み嫌い、差別して生きてきた。その意識は戦争で同じ味方として戦っていても失われず、結果彼らは都合の良い時だけ夜襲に利用される存在となっていた。
足音も少なく駆け抜ける第五部隊の兵たち。手に銃火器はなく、隊長であるてつは大振りのナイフを腰に潜ませ、あるものは斧を、あるものは短剣を。そのどれもがボロボロで、相当古い。
彼らは新しい武具など与えられず、布を纏い、敵から奪った刃物を手に戦わされているのだ。東に向かうには敵軍と衝突する。伝達を持ちここに向かう途中にキャンプを見た。 そう言ったてつに下された命令は百人余りいるその小隊の殲滅。
「危ない時に現れたからって途端に手のひらを返してさ、しかも結局こういう役目。やな奴ら」
「作戦が成功したら厄介払いさ」
「こら、にゃーにゃー無駄口叩いてると舌噛むぞー」
「はーい」
ヤモクの部隊は敵にとって脅威だった。昼間の捜索や戦闘では全く姿を見ず、夜になるとどこからか現れて夜襲をかけてくる。
明かりの一つさえ持っていない彼らの動きは全く掴めず、暗闇に慌てる兵士たちはさぞ殺しやすいだろう。
「やっぱり火を起こしてる」
「もうバレてんだよ、俺らのこと」
「でも火さえ消したら簡単に勝てるね、奴らの目が暗闇に慣れるまでにカタがつくよ」
木の影に隠れてヤモクたちは話し合っていた。その様子をてつはぼんやりと眺める。結局どうしたって夜は彼らの世界だった。あの程度の灯りなど関係ない。
「とりあえず突っ込もうぜ、まあ勝てるって」
「はーい隊長」
ゆるい指揮で隊員たちは動き出す。敵のキャンプの間近まで迫り、まるで本当のネコ科の猛獣のように草に身を伏せ目を光らせた。
「合図したら一気に飛びかかれ。いち、お前はあの火を消すんだ」
いち、と呼ばれた青年が耳をヒクつかせる。特攻から外される事に対して文句あり気に鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。
「行くぜ、せー……のっ!!」
気の抜ける合図で飛び出した隊員たちは奇襲に慌てる敵の兵士を次々と切り倒して行く。こちらが少数だと知り、ようやく体制を整えた敵が攻撃に転じようとした瞬間、いちが火を消した。
辺りは暗闇に包まれ、敵は味方へ当てることを恐れて攻撃できなくなる。
「タイミングいいぜ、いち!」
「ふん」
恥ずかしそうにしながらいちはナイフを逆手に構えて駆け出した。後は暗闇で動けない敵をただ殲滅するだけだ。
日が昇るまでに彼らはどこかへ身を隠さなければならない。それがもしも平原なら遮光テントを張るか穴を掘るしかないのだが、密林には天然の洞窟がいくつもある。
「よーし、ここらに身を隠そう。全員いるな?」
「番号ー!いーちっ」
「にーっ」
「さーんっ」
「しーっ」
くだらない事を言いながら子供の遠足のように列になって歩く隊員たち。てつも笑いながら参加していた。
彼らはたった15人の隊だ。この戦争で第五部隊からは3人の死者が出た。だが"それだけ"だ。彼らは強かった。
他の隊のものは彼らを蔑み、同時に恐れた。その少人数の通った跡には、夜の闇が晴れると同時に百数の死体が朝日に晒されるからだ。
「戻ったか、てつ」
「任務は完了したぜ、丁度いい洞窟があったからそこで皆を休ませてくれ」
「わかった。我々の部隊は明日の朝出発し東へ向かう。君たちも夜になると追いついてくるといい」
「ついでに追手の片付けもしてやるよ、じゃあおやすみ」
てつはそれだけ言うとボロボロの司令室を出た。
もうすぐ日が昇り始める。
▼ 02.袋のネズミ
悪い予感がしていた。だが進むしかない。アラタは26人の兵を従えながら東へ向かった。
どこへ向かうのが正解か、誰にもわからなかった。連絡手段はとうに絶たれて久しい。
「……やはり、一度撤退しませんか、中尉」
「撤退は不可能だ、少尉」
ユリノは前を見たまま答える。その言葉にアラタはギクリとした。
「な……」
「第七部隊と合流だ」
それ以上2人に会話はなく、ザクザクと木の葉を踏みしめる音だけが辺りに響いた。
「いち、寝てるか?」
「起きてる」
てつといちは息を潜めて起き上がり、静かな洞窟の入り口を見つめた。
「敵だ」
「捜索部隊だ、60人もいないよ」
すると他の隊員たちが一斉に跳ね起き、武器を手に取った。
「しっ」
てつが宥めて座らせると隊員たちは大人しくその場に座り、しかし落ち着かない様子でそわそわする。
「ここまで来ると思うか」
「僕らのこと探してるの?」
「いや、それならもっと大勢で来るさ」
てつは急いで全員を洞窟の一番奥まで連れて行った。
「隠れる場所が無いな」
「戦っちゃダメなの?」
「いいか、たく。あれは捜索部隊だ、交戦すれば情報を伝えに引き返して行く。俺たちは追えない。そして俺たちがここにいるとバレたら……袋の鼠ってわけさ」
たくと呼ばれた少年は理解したのかしていないのか、ふぅーん、と生返事をしてまた入り口の方を見た。
「何人か入ってきたね」
「ここまで来なきゃいいけど」
「来たらどうするの?」
隠れて、見つかったら音を立てずに殺す。てつはそう言って笑った。
「いち、ついて来い」
「うん」
いちはまだ16歳の少年兵だった。青く輝く瞳に、日に焼けていない真っ黒の髪、真っ白の肌、その色の対比は美しく、日の下で見ると誰もが見惚れることだろう。
だがそれは叶わない。
それに今はボロボロの布を纏い、血や泥であちこち汚れ、その美しさは見る影も無い。ヤモク部隊は基本的に若い兵が多いが、特にこのいちとたく、それからもう1人ことという少年が16歳で、後は22.3ばかりだ。
そんないちは隊の中で一番足が速く、てつも一目置いている。ヤモクは基本的に夜間、伝達として走らされることが多かった。
だからいちはよく命令を受け、夜の戦場を駆け回ってきた。その中でひしひしと感じたのは"全く人間扱いされていない"ということだった。
てつと共に歩いて行くと敵の掲げる灯りが見えた。
「まだまだ日は落ちない、いま見つかると厄介だな」
じりじりと下がりながら2人は打つ手を考えた。兵は引き返しそうにない。
「てつ、やるしかない」
「だが待て。なるべく奥まで引き寄せろ」
「夜まで籠城戦になる」
「ああ、わかってる」
猫どもはどうしてるかな。イクサが呟いた。
「なんだって?」
振り返ったヨイは疲れた顔をしている。ヨイだけではない、全員がそうだ。
「いや、どうしてるかなぁって」
「どっかの洞窟ででも寝てるんだろ。なんだ、気掛かりか?」
別に。そう返しつつイクサは背後を気に掛ける。あの若い部隊が心配だった。
「第七部隊だ!交戦中だぞ!」
前からワァッとそんな声が聞こえて、続けて遠くから爆発音が鳴り響いた。
「アラタ隊長!」
「……っ!!」
アラタは何も言えなくなった。戦力の差は歴然としている。相手は大隊で騎馬隊さえ率いているのに対し、こちらは歩兵が数十人。
――援護に向かう、全員抜刀……。いや、降伏だ、白旗を…ちがう、身を隠せ…。
……ちがうだろ。
「……っ仲間を見殺しにするつもりか!!全員戦闘態勢!!」
腹の底からアラタは叫んだ。ユリノと並んで戦火の中へ飛び込んで行く。混乱と、恐怖と、絶望と、興奮。アラタの視界はグラグラと揺れていた。
そして続けてヨイが雄叫びを上げて駆け出した。隊員たちはそれにつられてわあわあと走り出す。
だがイクサだけは動けなかった。
「あ……ひっ、い、いやだ、いやだ行きたくない!死にたくない!!」
腰が抜けてその場にへたり込み、地を這うようにして逃げ出す。情けなくて泣きじゃくっていた。
「ユ……、ユリノ、中尉……」
大量の人間の死体の中、アラタは生きていた。ズルズルと這ってユリノの隣にやってくる。
「まだ、ご存命にありますか」
「ああ……」
足を失くしたユリノは何もかも諦めたような顔で空を見上げたまま、小さく返事をした。
「この島に残っているのは、我らだけなのですか」
アラタもバタリと仰向けに倒れて空を見上げる。嫌に晴れていた。
「本隊は、とっくに俺たちを見捨てて、本土へ引き返していたのですね……」
「……そう、だ」
「何故、トオノ中尉は降伏しなかったのですか」
アラタは視線だけを動かして第七部隊を率いていたトオノの死体を見つめる。彼は胸を貫かれて絶命していた。なんて無意味な死なのだろうか。
「何故……」
ユリノの返事はない。やがてこの場で息をしているのはアラタだけになった。
捜索部隊はいちたちのいる場所まで入ってこなかった。何やら表が騒がしくなり、慌てて引き返して行ったのだ。
結局そのまま日は沈み、彼らが自由に動けるようになる。
「何があったのかな」
「別の場所で戦闘にでもなったんだろう」
「第三部隊か、第七か、両方か……」
ヤモクたちは木々の間を駆け抜けて行く。昼間はよく晴れていたのか、太陽の香りがした。ことが嬉しそうに呟く。
「僕らのクニは、綺麗だね」
「こんな時に馬鹿かこと。いいから走れよ」
たくに怒られながらも、ことはキョロキョロと忙しなかった。そして何かを見つけ出し、立ち止まる。
「あれっ、ねえ」
視線の先にいたのはイクサだった。
「ねえ、君、昨日第三部隊にいたよね!」
それに反応して全員立ち止まる。
「どうした、他の隊員は」
てつがイクサを起こして尋ねると、イクサはガタガタと震えながら泣き出した。
「見捨てて……逃げてきました」
その言葉にいちが毛を逆立てる。
「いち」
てつが視線で窘めてまたイクサに尋ねた。
「交戦したのか、どっちだ」
「すぐそこ、もう少し先……」
てつはイクサを他の隊員に支えさせ、再び進み出す。鼻や耳に集中して歩いた。
「こっちだ」
戦場はひどい有り様だった。敵も味方も無く、ただ沢山のニンゲンが死んでいる。
「生きているのがいる」
咽せ返る血の匂いの中、いちは耳に神経を集中させながら死体の海を見渡した。
「捜索しつつ使える武器やら物資やら頂いていこう」
てつの合図で隊員は散らばった。皆は刃こぼれしていない剣を探して回る。
いちは目を閉じて更に耳を澄ませた。どこかから僅かな呼吸が聞こえてくる。
「……あんた、生きてる」
「もう、放っておいてくれ」
目を閉じたままアラタはため息交じりにそう漏らした。
「辛いの」
「ああ」
いちはアラタの隣に立って、その涙が止まるのを待った。
▼ 03.降伏はしない
ヤモクたちは全員、自分たちに用意されている未来を理解していた。それでいてああも明るくいられるのは、元々こういった扱いになれている上に、自分たちの寿命を悲観してきたからだろうか。
「かと言って、これ以上どうする」
「白旗振って捕虜生活としけこむか」
「はは、悪くない」
ヤモクたちは死ぬ覚悟を整えていた。捕まったら最後。かつては自国でさえそうであったように、敵軍はその生態を調べようと彼らに人体実験を行うかもしれない。
先に死んだ3人の遺体は丹念に焼いて灰にした。いずれ今の生き残りが息絶える時も、誰かがそれを焼かないといけない。
そして、てつはそれを自分の役目だと思っていた。
「ここで皆で死ぬのもありだな」
「てつってそんなにロマンチックだったか」
アラタは地面に倒れたまま、そんな事を言い合って笑う彼らの声をぼんやりと聞いていた。
「強いんだな」
「……ん?」
その独り言を捉えたいちが思わず尋ねると、アラタはちらりと視線を寄越してから答えた。
「お前達は、すごく強いんだな」
いちは一瞬驚いたようだったが、すぐに誇らしげに鼻を鳴らす。
「当然だろ」
そんな様子にアラタも少し笑ってからてつを呼びつけた。
「どうした?少尉殿」
「ははは、それは嫌みか?」
「そうだよ」
笑いながらてつはアラタに手を貸して立ち上がらせる。存外に握った手は熱く、てつは少し嬉しくなった。
「隊長さん、あんたの部下思いには感服するよ」
「どうも」
とにかくまずはここから離れなければならない。こんな死の匂いがする場所に長居していたら気が変になるとてつが言い、部隊はあてもなく歩き出した。
「いち」
てつは名を呼ばれて駆け寄ったいちに、アラタの腕を掴ませる。
「お前が目になってやれ」
「うん」
振り返ったてつは戦場に人影を見て小声でことに尋ねる。
「イクサは?」
「あそこに残るって」
仲間の死体と共にそこに残るイクサの姿が、アラタには見えていなかった。
「……そうか」
第五部隊は密林を南下していた。このまま行けば敵の本軍と相見えるだろう。
「船でも盗んで逃げようか」
「夜な夜な少しずつ殺して、全部奪うのもありかも」
「それは楽しいな」
「とりあえず何か食べ物が欲しいね」
「よーし、じゃあ敵の支援物資を盗みにいこう」
ゆっくりと歩を進めながらアラタは苦笑を漏らす。
「いつもこんなに騒がしいのか?」
「うん」
「おーい、皆急ごう、日の出が近いぞ」
てつの言葉にアラタは空を見上げたが草木が生い茂っているせいだろう、月明かりすら全く見えない。
「こんな密林の中でよくわかるんだな」
「死活問題だからね」
川沿いに洞窟を見つけて、ヤモクたちは腰を下ろした。
「おなかすいたなあ」
たくが暢気に呟く。残念ながらあまり綺麗ではない川の中には魚一匹いなかった。
「そこらの草でも食ってろ」
「やだー」
その瞬間、ガガガッと不穏な音がしてヤモクたちは一斉に洞窟から飛び出した。いちも足を踏み出したが、ふと視界の端にアラタを見つけて思わず立ち止まる。
「いち!」 てつがそれに気付いて叫んだ瞬間、洞窟は崩れ落ちて2人は閉じ込められてしまったが、崩れたのは入口だけで奥は崩れず、怪我はなかった。
それよりも危険なのは飛び出した他の隊員の方だったのだ。
「てつ!こと!」
崩れた岩岩の向こうから叫び声が聞こえてくる。戦っている。まさか、待ち伏せされていた……? 「みんなぁ!!」
洞窟は完全な闇に包まれて、さすがのいちにも何も見えない。アラタは黙って岩に耳をつけて向こうの様子を伺った。
「おい、静かにしろ」
「早く岩を!見殺しになんてできな…」
「静かにしろ!!」
狭い空間に怒号が響き渡り、辺りは静かになった。いちは震えながらそっと岩に耳を当てる。
数時間後……もう日は昇っているだろう。外はすっかり静かになっていた。
「みんな………みんな、殺された」
「俺たちだって時間の問題さ」
ため息交じりに座り込み、アラタはぐしゃぐしゃと乱雑に髪をかき乱す。それはいちにとってあまりに突然の出来事すぎて、何の感情も湧き起こせなかった。
しばらくして、ゴトゴトと岩を退かしていく音が外から聞こえてきた。自失していたいちがぼんやりと呟く。
「外に出たら…みんなを燃やさなきゃ」
「無理だ」
アラタは片膝を立て、がくりと項垂れたままそう返した。
「日の下に出たら俺だって死ぬ。少尉さん、みんな燃やして、全部燃やして」
「落ち着けよ」
ガタタッと崩れる音がしていちの背後から日の光が差し込んだ。それはほんの少しの光だったが、いちは足元に突然明るく映し出された自分の影に驚いて身を屈めた。
アラタはそんないちを見てため息を吐き、羽織っていたマントを背にかけてやる。そして意識が遠のくいちを眠らせるように言い聞かせた。
「目を覚ます時には、 故郷 の村だ」
▼ 04.生還
小さな田舎の島国、ユーリオーリの南の端に浮かぶジオル島、大国から送り込まれた6千の軍隊に対し、こちらから送り込まれたのはおよそ1万5千人。連隊が3つの師団であった。
ユーリオーリ国陸軍第二師団、率いていたのはラウド中将、そして3つの連隊長は1からコマゴイ少将、ハヤナ少将、セト准将。
長い年月を掛け培われたユーリオーリ国民の「平和ボケ」は、この戦争の深刻さすらも気付かせないほどに進行していた。どこか未だ夢心地の兵士をいくら送り込んでも、道端の小石ほどの足止めにさえなり得なかったのである。
人数差を物ともしない圧倒的な戦力差にユーリオーリ軍は間も無く敗走へ転じ、統率力を失い、潰走、遂にはその半数以上をジオル島に残し、本土へと逃げ戻った。 第一連隊以下全大隊、そして第二連隊の第三大隊、第四大隊、計8300人ほどが逃げ仰せ、残された6700人余りは全滅……ただ2人の捕虜を除いて。
いちが目を覚ましたのは知らない船の医務室だった。
「……ここ、は……」
体を起き上がらせてぐらりと傾く。酷い目眩がした。
『起きましたか』
異国の言葉だった。思わず身構えるいちに、現れた医師風の男は柔和な笑みを見せる。
『大丈夫ですよ』
言葉はわからないが敵意が無い事はなんとなく理解できて、いちはホッと肩を落とした。
「俺、どうなるの」
通じないとわかっていながらいちは尋ねた。不安で仕方がなかった。
医師は首を傾げて困ったように笑うといちの体を調べ始める。簡単に脈を測り、血圧を調べ、熱が無いか見て、それで終わり。 徐 に立ち上がると窓辺のカーテンを少し開けて外を確認し、念入りに閉めてから部屋を出て行った。
「医師や研究者に捕まると調べられて解剖されて、実験体に使われる」と聞いてビクビクしていたいちは今度こそ本当に大きく息をついた。そして、早く誰もいない間に抜け出して、仲間の遺体を焼かなければ。そう考えた。
だがどうにも体が動かない。呻いているとそのうち扉が開かれた。
「いち」
入ってきたのはアラタだった。
いちは隣に立ったアラタに藁をも掴む気持ちで縋りつく。
「少尉さん!この船のどっかにきっと仲間が乗せられてる!その遺体を…っ」
ガッ、と雑に額を押さえつけられていちはベッドに沈んだ。アラタは呆れたようため息を吐いて「いいか」とわざとらしく人差し指を立てた。
「まず、落ち着け」
いちが半開きだった口を閉じたのを確認してから更に続ける。
「ここは敵軍の船の医務室、さっきの彼はシオズ軍医中佐、そして第五部隊の連中は立派に戦死したものであり、それ以上の辱めを受けるべきではない」
「う、うん」
よくわかっていないいちにアラタは笑いかけてその頭を撫でた。
「お前が心配することは何もない。中佐に感謝するんだな」
そうして部屋を出て行こうと歩き出す。いちはその背中を見ながらぼんやりした頭で「なんだ、この人、あんな風にちゃんと笑えるのか」とおよそ関係のないことを考えていた。
「ちゃんと寝ておけよ。日に当たって弱ってんだ、お前」 そのままいちはウトウトと眠りに落ち、アラタの言葉は最後まで届かなかった。
捕虜生活は短かった。
いちを不憫に思ったシオズ軍医中佐の計らいだったが、彼にそれを知る由などなく、中佐がその後どうなったのかは、殊更に関わらぬ話題であった。
本土へと向かう自国の船の中、カーテンを少し開けて小さくなって行くジオル島を見つめながらアラタは呟いた。
「なんか、五回は死んでた気がする」
「合わせて十階級特進だね、軍帥越えだ」
「生意気」
シャッとカーテンを閉めて振り向いたアラタは不機嫌そうな顔を作りつつ、その表情は柔らかい。
「ほら、寝てろ」
顔色の悪いいちを気遣ってアラタは毛布を寄越した。
「大丈夫だってば」
「ニンゲン様の言うことは聞いとけっつーの」
何気無く発せられたその言葉にいちは黙り混む。アラタは全く悪気のない様子で「どうした」と尋ねた。
「俺は……俺も、ニンゲンだ」
弱々しく返された言葉にアラタはドキッとした。それから間も無くして酷い自己嫌悪が襲ってくる。そして下手な慰めの言葉をいくつも脳裏に浮かばせては唇を噛み苛立った。
「……悪い。失言だった」
結局謝るしかない。根底に植え付けられた差別は、本人にはそうと気付かせずに相手を傷つける言葉を言わせてしまう。
いちを人間じゃないとまで思っているつもりなどなかった。だが、ヤモクは"自分とは異なるもの"だとはずっと感じていた。「俺もニンゲンだ」と言ういちの言葉は酷く重かった。
国民からの批判は酷いものだった。降伏もしないままに大量の兵士を見捨て、無駄に死なせ、ノコノコと逃げ帰ったのは全てが貴族出の将軍であったからだ。
平和ボケした能無し共はこの批判の波を受けて生還したアラタを慌てて少佐に任命し、いちに関しては"無かったこと"にされた。
それに1番激怒したのはアラタであったが、その感情さえ自分の差別を誤魔化す為の「偽善」に感じられて嫌気がさした。
「何が『戦場に残り生き残った英雄』だ、戦場に残されて命からがら生き延びたの間違いだぜ」
あらゆる感情からハラワタが煮え繰り返る気持ちでアラタは実家へ向かった。
▼ 05.この人のために
ユ(ユーリオーリ)国陸軍第十三大隊第三中隊将校、北葉月アラタ少佐――少尉から少佐へ。
この特進には、彼の血縁に依る所が多かった。 それを厭(いと)ったからこそ彼は少尉止まりの現状に甘んじていた。しかし軍もそんな彼の自尊心に付き合ってやれなくなったのだ。
何しろ彼は悲劇のヒーロー。上官共に総じて見捨てられながらも命からがら生還した北葉月氏に、将官の座をやらぬわけにはいかない。
貴族から出たボンボン士官は仲間を見捨てた腰抜け野郎だと避難轟々の国民に、せめて少しでも顔を立てるためだ。
アラタは悔しがった。
――くだらない。だから嫌なんだ。だったら、どうして……。
「なんで、いちの事は無かった事にするんだ!なぜ!ヤモクだからか!!?」
アラタの悲痛な叫び、訴えは誰の耳にも届かなかった。そして彼は自身の中に確実に存在する差別の意識を自覚せずにはいられず、所詮自分も同類なのだと自己嫌悪に陥った。
「失礼します、本城ミコト中佐殿」
アラタは疲れた足でとある男の執務室を訪れていた。敬礼し、恭(うやうや)しく頭を下げ、許しを待つ。
「良い。上げなさい。どうしましたか?北葉月少佐」
丸い童顔に似合い物腰の穏やかな彼は本城ミコト中佐、ユ国陸軍第十三大隊隊長である。ともすれば微笑みかけさえしそうなミコトに対しアラタのきりりとした顔立ちが対象的で、ともすれば立場が逆の方が似合いなようだ。
戦場でのボロ布を脱いで綺麗な隊服に身を包んだアラタは年相応の清潔さを取り戻して見えた。煤けていた髪は少し日に焼けた黒色で、瞳は漆黒、気が強そうな細く整った眉、そのどれもが健康的な肌の色にとても映えている。
無骨な手にも気の強さが現れているようだった。アラタは強い意志を含んだ視線を恐れる事無くミコトに真っすぐ向けて言い放った。
「ジオル島防衛軍第三大隊特殊捜索ヤモク部隊第五小隊、ヤモクのいちを、私の軍に引き入れたく存じます」
アラタの申し出にミコトは今度こそ口元に明確な笑みを浮かべて返す。
「彼は、今どこに?」
「わかりません、捜索中です」
少し埃っぽいような、長く歩いて来たような出で立ちはそのせいか、とミコトはまた笑った。
「はい、わかりました。見つけ次第連れて来なさい」
それはつまり、兵士として役に立つと思えるなら「諾(だく)」という事だ。
この本城ミコト、軍内でも有名な"寛大な男"であった。彼には差別という概念が無い。心の底からない。アラタはそんな彼が羨ましかった。
自分の中には、拭っても拭ってもどこか後ろ暗く"差別"の意識が付きまとう。実際にヤモクと接し、いちは1人の人間であると実感した上でも、どこか、何か。
幼い頃から植え付けられた思考は一生をかけても簡単に変えられる物ではなかった。差別を差別せんために特別待遇をするなど、本末転倒。アラタにとって"普通を装う"のが精一杯の努力だった。
「ありがとうございます」
苦い顔でまた敬礼するアラタにミコトは苦笑して返す。
「北葉月少佐、あなたは勘違いをしているね」
「は、と申しますと……」
「私は、君が思うほど聖人君主なわけでは無いということさ」
本土に戻ってからあれよあれよと少佐に任命され、実家から迎えが来て、そのうちにアラタはいちを見失った。
そのことに気付いたのは帰還から5日ほど経ってから。彼はコトが落ち着くのと同時に身体を休めるのもほどほどに1人でいちの捜索を始めていた。
探す場所は橋の下や廃墟。日の光が届かない場所で1人眠っているのだろうと思った。
――どうしているだろうか。
なんとなく、自分を待っているような気がした。
首都サントオールの郊外、寂れた廃墟の中にいちはいた。そこはアラタの実家からそう遠くない場所で驚かされた。
「いち」
踞(うずくま)る影に呼びかけながら近寄っていく。気付いていないわけがない。ヤモクの五感の鋭さはよく耳にする。
人の気配に敏感な小動物のように、自分の警戒網を侵すものがあれば一瞬で目覚めるはずなのだ。もちろんいちもそうだった。
アラタがこの廃墟の前に立った瞬間から意識は浮上していた。だが、気付いた上でそれがアラタだと知り、眠っているふりを続けている。
優しく触れて起こして欲しいのだろうか。アラタはそれを理解し、そしてそんないちが酷く不憫に思えて、同時に愛おしくなった。
「いち」
だが触れてはいけないと思った。守れもしないくせに甘やかすのは、よほど酷い仕打ちに思えたからだ。
「いち」
再三声を掛けると、いちはたった今起きたかのように目を擦りながら体を起こした。アラタは健気に自分の心を守ろうとするいちの姿に、途端に申し訳なくなる。
「もうすぐ日が落ちる。おいで」
優しく言うといちは一言も反論せずついて来た。夕日が沈むのと同時に2人は廃墟を出て、北葉月家に向かった。
▼ 06.不必要な恐れ
それからしばらく、いちは北葉月家で暮らした。次の出動命令が出るまではここにいることに決まったのだ。
「いち、お前俺の隊に入るか?」
「少尉さんの?」
薄暗い客室で目を閉じて瞑想していたいちはアラタの言葉に耳をピクリと傾けた。
「もう今は少佐だ」
「へえ」
嫌味に笑っていちは片膝をつき、更にそこに頬杖をする。
「それよりお前、何してるんだ?寝てたのか?」
「耳を鍛えてたんだ。こうしてると家中のことはほとんどわかる」
目を瞑って浅く静かに呼吸をしていちは微動だにしなくなった。
「足音、生活音、ともすればその人の呼吸、肌を掻く音、もっと集中すれば衣擦れの音まで聞こえるんだ」
聞かれていい気はしないだろうけどね。といちは苦笑する。
「でも、時々こうして研ぎすまさないとやっぱり、劣っていくばかりだから」
アラタはここでも少し渋ってしまった。聞かれていい気はしない。正にそうなのだ。むしろ嫌な気分だ。単純に感心してやることが出来ない。そう考えてまた自己嫌悪する。
どうすればいいんだ。俺はあいつに対して"無意識に差別してしまうこと"を恐れすぎている。
「はは。嫌な気分になったなら、そう言えばいいじゃないか」
簡単に言ってくれるのはミコト中佐。いちの入隊が決まった後もアラタは暇を見つけては彼と話しに来ていた。
彼の言葉には飾り気も無く、嘘も無く、なんでも相談できる気がした。
「簡単な話、もし私が同じ事をしても君はきっと嫌に思うに違いない。君は彼の行動を彼がヤモクだから嫌だと思ったわけじゃないんだ、そうだろう?」
個人的な生活を覗かれる不快感は誰にだって抱く。ミコトの言う事はもっともだったし、アラタもわかっていた。
「……おっしゃる通りです」
「君は臆病すぎるね。彼ともっと自然に思うまま話してごらんよ」
きっと彼も、君のその緊張を感じ取って落ち着かない心持ちでいることだろう。ミコトはそう諭して微笑んだ。
「中佐殿は、やはり噂以上に寛大な方でいらっしゃる」
「そんな事も無い。私は臆病者の八方美人で、嘘つきなんだよ」
貴族出身のボンボンで、嫌われるのが怖いダメ士官だと笑ってミコトは書類を片付けていた手を止めた。
「さあ、もう仕事は止めだ。何か飲むかい?」
「いえ、もう戻ります」
そうして席を立ったアラタの背中にミコトが声をかけた。
「もうすぐ声が掛かるだろう。実家の皆さんには挨拶を済ませておきなさい」
「……はい、失礼します」
アラタが家に戻ると外出着を身に纏ったいちが丁度出て来た。
「どこか行くのか?」
「日が昇るまでに帰るよ」
「俺も一緒に行っていいか」
間髪入れずに尋ねたアラタの顔を訝(いぶか)しげにいくらか見つめた後、いちは黙って頷いた。そのまま2人は並んで歩き出す。
奇妙な光景だった。端から見れば夜道を散歩する仲の良い兄弟にさえ見えただろう。だがその間に会話は無く、ぼんやりとただ前だけ見ているアラタと、不思議そうにその顔色を伺ういち。
「……ねえ」
「うん?」
「一体どういう風の吹き回しですか、少尉さん」
「可愛げねーなあ、たまにはいいだろ」
暗い夜道を並んでただ歩く。いちは時折アラタの服の裾や腕を引いて躓きそうなものを回避させていた。
「お前がいたら暗闇も怖くないな」
アラタは唐突にそう言うと目を瞑ったまま駆け出した。
「ちょ……」
「隊長命令だ!いち、俺の目になれ!」
「ふざけてんじゃないって、あ」
ガンッ、と痛そうな音を立ててアラタは壁にぶつかった。だが気にせずに適当な方向へまた進み出す。
「こら、仕事しろ仕事」
「……十一時の方向、障害物あり」
アラタは黙って立ち止まってからうーん、と唸った。
「どうやって避けたらいいんだ?右に回避か」
「そうだよ」
呆れたようなため息まじりの声でいちは返した。これはいったい何のお遊びだ。
「足下は安全か?頭上は?他の方向にはどれくらいの距離で何がある?」
「あのさ……」
「お前の所まで連れて行ってくれ」
笑うアラタに根負けしていちは事細かに状況を報告した。右足のすぐ隣に小さな小石が落ちていることまで。
「よし、じゃあ待ってろ」
それだけ言ってアラタは自信満々に歩き出した。その歩みには迷いが無く、危なげなくいちの目の前までやってきて1メートルほどの距離でピタリと止まる。
「……目、開けてる?」
「いいや。お前のくれた情報だけで歩いたよ」
それに、開けてたってほとんど見えないような暗さだろ。アラタは目を開いていちと目線を交わしてから冗談めかして言った。
「だがこれで俺も、夜の闇を駆けることができるな」
▼ 07.言い争い
「輜重(しちょう)部隊に?」
アラタは聞き返した。それはいちを輜重部隊に入れるという話だった。
「ああ、彼もそうしたいと」
「しかしミコト中佐殿!」
アラタは食い下がった。
――俺は、いちと共に戦いたい。
あの死の闇の中で手を引いてくれたいちの力強さは隊に必要なものだ。そう信じて止まなかった。
「落ち着いて考えてみなさい、少佐。私は彼がヤモクだからと差別する気も、特別待遇をするつもりもない。ただ、彼が一兵士としてどういった仕事を任せられるのが最適か考えているだけなんだ」
諭(さと)されてもアラタは納得できなかった。
――何故、いちを輜重部隊"なんか"に。
それも、やはり本人には無自覚の偏見であった。
輜重部隊とは、兵站(へいたん)を主に担当させられる、ユ国陸軍における後方支援兵科のひとつであった。兵站というのは戦闘を続けて行くのに必要な支援全般を指す。
これといった定義がないのがある意味の特徴であるが、新たな武器が生み出され戦術が変わってもいつまでも変わらないであろう"支援"といえば、食べ物であろう。空腹を抱えて戦い勝てるものか。
身を清潔に保ち病を予防するために衣服も必要かもしれない。もちろん弾薬も要るだろう。
輜重部隊はそういった物資の支援を行い、戦線を支える重要な役目を担っているということだ。もちろんその"支援"は物資ばかりではなく、負傷者の救出なども含められている。
しかし、どうしてアラタはそんな輜重兵を差別するのか。それはヤモクと同じく"兵站という概念"がこのユーリオーリにおいて長い期間"当然のように"冷遇されて来たからだった。
この国には、生存戦略などするくらいなら、潔く散るべきだとする国民性が根付いていた。それがこの国の常識だった。
しかしミコトは兵站の重要性を理解し、生き残ろうとする戦術を好んだ。それでもまだまだ世間はそうではない。
輜重部隊といえは"無能の行く場所、左遷先、兵士ではない"とまあ、言いたい放題言われ、蔑まれて来た。アラタはただでさえヤモクであるいちをそんな輜重兵にはしたくなかったし、自身もやはり輜重部隊を正当な理由もなく、ただ"そういうもの"という思い込みにより厭(きら)っていた。
「いち!」
「来ると思った。文句なら聞かない」
部屋で待ち構えていたいちはピシャリとそれだけ言って話を聞く気は無いと布団に潜り込んだ。
「いち、ちゃんと話をしよう」
「聞きたくない」
いちはアラタが世間の偏見や差別に流されやすく、そしてその上流されている自覚すらない性格が嫌いだった。
何も知らずにいた自分にミコトは対等な考えで以って兵站という概念を教えてくれて、いちは自ら輜重部隊についての話を聞き、転属を希望したのだ。
周りの意見など関係ない。自分の能力はそこでこそ発揮されるべきだと確かに思えたからそうしたのだ。だがこの剣幕で帰宅したアラタはどうか。
世間一般的な"常識"を掲げて理不尽にも説教さえ始めようとしている。
「いち、あのな…」
「聞きたくないってば!!もう決めたんだ!」
これ以上、幻滅したくなくて遮った。
「あんたの部隊に入隊させてくれたことには感謝してる。こんなはみ出し者の俺を…」
アラタはどうしようもなく憤(いきどお)ったが、それ以上何も言いはしなかった。気まずい空気だけが二人を包み込んだ。
出動命令が出たのは翌日の夜だった。
明日の朝に戦地へ向かうと指示を受け、いちは夜の内にと他の兵士たちより一足先に船に乗り込んだのだ。アラタは自室で眠っていた。起こさずに来たのは結局口論になってしまった気まずさからか。
いちは静かな船の中でいろんなことを考えた。ジオル島で死んだ仲間たちのこと。自分を対等に扱ってくれるミコトのこと。敵軍にも関わらず庇ってくれたシオズ軍医中佐のこと。
仲間と共に死の戦場跡に残ったイクサ二等兵のこと。そして、自分に対して差別意識を抱いているくせに、必死で守ろうとしてくるアラタのこと。
不安でいっぱいだった。
泣きたいわけでは無かった。だがいちはとめどない感情に押し潰されそうになって、一人、膝を抱えて泣いた。挨拶もなく出てきたくせに、やっぱりどうしようもなくアラタに会いたかった。
▼ 08.存在意義
ジオル島よりも大きな、いくつかの都市が存在するフート島、その北東部海岸線に引かれたユ国陸軍の防衛戦線はジオル島の時と比べ、5倍にも膨れ上がる大部隊だった。
総勢10万の兵と、豊富な支給品、膨大な量の弾薬、砲台。騎兵も増え、万全の体制と言えた。さすがの平和ボケも多少は収まったようだ。
だが、敵の大国には足元にも及ばないであろうことは皆が気付いていた。
「ミコト中佐殿、予測ではあと二刻ほどで相手軍と接触します」
「わかりました、それでは第二中隊と第六中隊はそれぞれ前進、第七中隊は後方で待機」
アラタは落ち着かない心持ちだった。前線に立たず、こうして安全な場所から口頭で兵を動かすのは奇妙な気分だった。
――いいのか。お前たち。俺はこんな場所からのうのうと指示を出しているだけなんだぞ。その通りに動いて後悔はないのか。死ぬかもしれないんだぞ。
愚かな考えだった。その答えはとっくに知り尽くしている。アラタもジオル島では、今こうして眼前で指示通りに動き出す兵士たちの中の一人だったのだ。
「……戦争はお嫌いですか、アラタ少佐」
ミコトが苦笑しながら呟いた。一見揶揄(やゆ)しているようにさえ見える。アラタはそれを知りながらわざと不機嫌を装った。
「あなたは随分楽しいようですね」
その心中をわかっているミコトはその軽口を甘んじて聞き入れ、また笑みで流した。
「さあ、すぐに戦いが始まりますよ」
アラタはミコトの優しさに甘えている自分を嫌い、自分よりずっと辛いはずなのに朗らかなままのミコトを呪った。
戦況は五分五分……これは想像を大きく上回る成果だ。それを支えたのは他でもない輜重部隊だった。
負傷した兵を素早く保護し、手当に回し、足りない物資を先回りして届けてくれた。相手国はユーリオーリの兵站部がここまで進歩しているとは予想しておらず、思わぬ苦戦を強いられていた。
何より不気味だったのが、昼間に奇襲をかけその後方支援を絶っても何故かユ軍の士気は衰えず、物資の調達もできていることだった。
それどころか、いつの間に捜索部隊にでも調べさせたのかユ軍の布陣は完璧であり、敵国はむしろ防戦に回りつつある現状であった。
「輜重部隊はまだ着かないか」
「早く来ないかなあ」
そして戦場でその頼もしさを実感し、いつしか兵站を軽んじる兵士はユ国軍に一人もいなくなっていた。
「敵国の襲撃にあったと考えるべきでしょう、支援は期待できませんね」
ミコトが残念そうに言う。それは、支援が来ないことに対してか、物資を運ぶ途中で戦死した仲間を思ってか。
アラタは強く悔やんでいた。あの時に世間の偏見に惑わされ、いちの覚悟や兵站への思いを理解しようともしなかったことを。そしてそれから一度も話せないまま戦場に来てしまったことを。
「…いち、今どこにいるんだ」
――今、このユ国軍を支えているのはいちだ。
昼は大勢で行われている兵站活動だが、夜の間はいちが一人で戦場を駆け回り敵勢調査、物資の支援、負傷者の救護、伝達……その全てを担っていた。
兵士たちは夜の闇を抜けて現れ、闇の向こうの情報を持って来てくれるいちに心から救われていた。彼さえいれば夜の帳(とばり)は恐ろしくなくなった。
そうして、いちもここに自分の存在意義を見出していた。自分のヤモクとしての能力を、仲間たちが必要としてくれている。強くそう感じることができた。
その嬉しさで、どんな距離も走り続けられるような気がしていた。
「ヤモクのいちが伝達と支援物資を持って来ました!」
その夜、アラタのいる中隊にもいちがやってきた。兵士たちはわっと喜び、いちを労った。
「ご苦労だった……いち」
「うん」
迎えに出てきたアラタを見ていちは気まずげに視線を泳がせる。本当は抱きついてしまいたい気分でいっぱいだったのに。
「あの、これ渡したらすぐ出ないと。北西の敵勢調査を任されてるんだ……」
二人の間には微妙な空気が流れていた。緊張、安堵、焦燥。
伝達の紙を渡してそそくさと去ろうとするいちをアラタが思わず呼び止める。声をかけられていちは明らかに肩をビクつかせた。
「いち……その、悪かった。俺、今のお前を凄く立派な兵士だと思ってる」
アラタはきっぱりと言い切り、その意志の強い瞳をいちに向ける。いちはその言葉に思わず目を見開いてから、くしゃりと年相応な笑顔を見せた。
アラタはその笑顔を見て、何か考えたようだった。
「……戻るなら伝達を頼んでいいか?急ぐから、少しだけ待ってくれ」
「うん、わかった」
司令室に戻っていちを座らせ、伝達の返事を用意する間アラタは必死で言葉を探していた。そしてそれはいちも同じだった。
――話したいことがたくさんあるんだ。
だがそれはどれも言葉にはできなかった。静かな時がただただ穏やかに流れていた。
「じゃあこれ、頼んだ。気をつけて行けよ」
「大丈夫、ありがと」
敵の様子を調べて帰るといういちを心配そうに見送ってアラタは司令室に戻った。
いちは疲れているようだった。足取りも重たげで、頬にも生気がなかった。あまり無理はするなよと言ったが、無理せずに戦争ができるのかと言い返されてしまった。
その通りだ。皆いちの体力を心配しつつも、頼らずにはいられなかった。
▼ 09.守りたいと思うこと
そろそろユ軍の運も流石に尽きてきて、戦況は後手に回り出した。支援物資にも底が見え、襲撃により兵は減り、防衛戦にさえならない有様だ。
そしてやはり無理だったのだと、兵士たちはどこか諦めたようでいる。なによりそれがいちは悔しかった。
ここまでやってきたのに、そんなに簡単に諦められるのか。煮える思いで弾薬を背負い走り出そうとした背中を隊長が引き止める。
「いち、休んでいなさい」
「ですが!!今俺が休んだら……」
「君一人が頑張り続けても無駄だ」
「俺が頑張らないといけないんです!夜の闇の中を走れるのは俺だけなんだ!」
首を振り続ける隊長にいちは詰め寄った。
「皆が待っているんだ!!見捨てろって言うのか!!」
闇の中、足りない武器、空腹、本隊との連絡もつかず、兵士たちはどんなに心細いだろうか。いちの頬には涙が伝っていた。
「もう、我々は負けたんだ」
「それでも、仲間たちと戦い抜いて死にたいです」
ヤモクの仲間の最期を思い出していたのだ。役立たずの自分を呪った。たかが一人の力などしれている。
「君は死ぬべきじゃない」
隊長は本心からそう言った。彼の心の中も、後悔でいっぱいだった。何を今更、間抜けな言葉だ。
始めからヤモクを輜重兵として使っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。そして、そんな意見は戦争の始まる前からもちろん存在した。
だが結局小隊として駆り出された理由は、化け猫などに大切な支援物資を触らせたくない。と上流階級のボンボン士官たちが一蹴してしまったからに他ならない。
差別、偏見というものは、とことん悪い事象しか起こさない。
「たかが一匹の猫が死んだところで、軍の懐は痛みませんよ」
いちの卑屈な言葉を聞いて隊長は悲しい顔をした。まるで自分が言われたように辛い、差別の言葉。
そんなことを言うな、などとは言えなかった。いったいどの口が言うのか。そういった言葉を彼らに散々投げかけてきたのは、他でもない自分たちなのだ。
「……無理はしないようにしなさい」
「はい」
いちは敬礼し、一言謝って闇の中へ消えて行った。
隊長を悲しませたいわけではなかった。ずるい手を使った自覚もある。ただ、走らずにはいられなかった。
アラタの部隊は減りつつも防衛線を守り、未だ士気を失っていない数少ない隊だった。彼の指示が的確で、何かを信じているような、強い信念の元に出されるものであったからかもしれない。
「敵軍が接近しています!南東より、あと三刻ほどで接触します!」
アラタは少し考えて兵たちを見たあと、ぼんやりしているミコトに許可も取らず指示を出した。
「わかった、各隊戦闘に備えろ」
「はっ」
ミコトは黙って風上の方を見つめていた。
「ミコト中佐殿?」
こんな時に何をほうけているのかと、呆れたように声を掛ける。最近の彼は指揮の全てをアラタに任せたまま、ずっと何かを考えているようだった。
「嫌な風だ。人の焼ける匂いを運んでいる」
眉一つ動かさず、それでも確かな嫌悪を抱いた声色でミコトは呟く。唐突な言葉と地を這うような怒りの声にアラタは思わず冷や汗を流し身震いした。
「火を使うのか、相手方は」
「…中佐殿……」
人の焼ける匂い。
――どこかでいちも感じたのだろうか。あいつの嗅覚は優れていると聞く。
アラタはふとそのような事を考えた。
――もしかしたら、戦死した仲間のヤモクを焼いた時のことを思い出しているかもしれない。
そしててつのことを思い出した。
シオズが言付けてくれて、丁寧に埋葬された銀髪のヤモク。ヤモクでありながら下士官の号をもらい受け、立派な夜目部隊の隊長だったのだろう。
日に当たったことのない彼と彼の仲間たちは驚くほどに白く、傷つけられた部分が真っ赤な花のようで、酷く残酷で……とても美しかった。
「布陣はどうしますか」
「このまま待つ。なるべく引き寄せて、弾は大切にしろ」
「はい」
どうしようもない。こんなことしか言えない。兵たちの気力が有り余っているのがむしろ滑稽で、悲惨だった。
「どうして絶望してる奴がいないんでしょうね、うちには」
「こうして死を待つのも、悪くないものですよ」
もう隊に戦う力はない。この戦いで全てが終わるだろう。ミコトは穏やかに笑ってアラタに指示を出した。
「あなたはまだ死ぬべきではありません」
――あなたの猫を探しに行きなさい。
▼ 10.夜明け
アラタは戦線を離脱し、海岸を目指した。
戻ってどうする。軍を放り出して。こんな将佐、史上最低だな。そう自嘲しつつ北へ走る。日が落ちかけていた。
「バカ中佐、日の落ちる時間に一人で隊から外させるとは」
笑いながらそう呟いてアラタは薄く見え始めた星を見上げた。空は晴れている。走れるだろう。闇は怖くない。
海が見えてきたのは夜明け前だった。何度も躓いて転びかけながらも、アラタは無事ここまでやってきたのだ。
「あれ……ど、どうされたんですか?北葉月少佐殿」
見張りをしていた軍学校時代の知り合いが声をかけてきた。アラタは苦笑しながら特命だと嘯(うそぶ)いて見せる。
「いちはいるか?」
「いえ、まだ戻らないですね」
「やめろよ、同期だろ」
敬語を制してから「待とう」とアラタは見張り台の傍に腰を下ろした。
「どうするつもりなんだ?」
「……首都に戻す」
「ああ、それがいい、そうしてやれ。お前ならできるだろう」
嫌っていた自分の家の身分。アラタは苦笑しながら「有難いことだ」と零した。
「どこに行ってるんだ?」
「どの隊からも救援依頼は尽きないからな。いちの気が思うままに走らせてる。遠くには出ないよう言ってあるから、もうすぐ戻るだろう」
アラタは落ち着かない心持ちで空を見つめた。
「いつもこんなギリギリなのか?」
空が白み始めている。日が昇るのは近い。
「いや、確かに……遅すぎるな」
「探しに行く」
立ち上がったアラタの背に思わず見張りが声を掛けた。だが、引き止める理由が見つからなかった。
「……気をつけろよ」
「ああ」
いちは海岸沿いの街道で倒れていた。物資を運んだその帰り。あと少しで輜重部隊の拠点に戻れるのに。疲れ果ててもう少しも動けなかった。
酷く頭が痛い。目眩もする。耳だけは嫌に敏感で、どこか近くに潜んでいる兵の呼吸が聞こえた。
仲間か、敵か。それすらわからない。足はどこもかしこも痛くて、物を運び続けた腕にも、もう力は入らない。
朝の香りがしてきた。ヒヤリと冷たく澄んだ風が香る。うっすらと目を開くと世界はぼんやり明るかった。太陽が昇り始めている。もうすぐその光が見える。
――こんな場所で、一人で。
でもそれも悪くないと思った。
生まれて初めて見る太陽をどうかこの目に焼き付けようと、ぼやける視界を必死で凝らした。スッと輝く光が地平線から漏れ出して、いちの瞳に突き刺さった。
――眩しい。
いちは無意識に微笑んでいた。
――あれが、太陽。俺を焦がす光。
もっと見たいと首を擡げた瞬間、足音と声が聞こえた。
「いちーっ!!」
武装していないのか、ヤケに軽い足音にいちは思わず振り返った。何か考えるより先に「一人で何やってるんだ」と叫ぼうとしたのだ。
だがそれは声にならず、ガバッとすごい勢いで布を被せられていちはアラタの下敷きにされた。
「バカ!何やってんだ!!」
マントに包まれたまま抱きかかえられていちはもごもご抵抗したが、押さえつけられる。アラタはなるべく影を通りながら道を引き返して行った。
▼ 11.幸せを願うという身勝手
まただ。また、俺は大事な時に気を失って。
今度目を覚ますのはどこだろうか。
もう嫌だ。戦えずに終わるのは、もう嫌だ。
いちは夢の中の遠い意識の中で、ジオル島で捕虜になり、失意のまま本土に戻る時のことを思い出していた。
いちは一先(ひとま)ず本土に移され、一番近い軍の医療班に任された。アラタの言付けによってそこに現れたのは八代バーンハード海軍大佐。彼は昔から北葉月家と縁が深く、アラタのことも甥のように可愛がり、子供の頃からよく知っていた。
背が高くガタイも良く強面な見た目だが、それに似合わない優しい声の持ち主だ。
「様子はどうだい」
「おや、あなたがこんな僻地へ来るとは、一体何事かな」
年老いた軍医が苦笑を零し、いちを見下ろす。
「この子は幸運の持ち主のようだね」
「可愛い甥っ子の頼みだからな」
悪戯に笑ってバーンハードはいちの髪を撫でた。
「まあ、この子のことは僕が責任を持つよ」
するといちがむずがゆそうに目を覚ました。しばらくぼんやりした後で、辺りを見回す。
「……俺」
「まだ死んでないよ」
縁起でもないことを言って笑ったバーンハードを見て、いちは驚いた顔をした。
「どうかしたかい?僕と君は初対面なはずだけど」
「ああ、いや、その……知り合いに似てて」
少し考えた後にバーンハードは尋ねる。
「アラタのこと?」
「……知り合いなのか」
いちの返事に笑ってまた尋ねた。
「全然似てないじゃないか」
「うん、落ち着いて見たらそう思う。でも……雰囲気とか、なんだろう、話し方?」
なんか嬉しいなあ、と呟く大男に今度はいちから質問する。
「あんたは、誰?」
「僕は八代バーンハード、ユ国海軍大佐だよ」
海軍大佐。海軍……。口の中で繰り返していちは途端に畏まった。
「あのっ、すいません、俺!」
「気にすることないよ、敬語なんて」
「俺を戦場に帰してください!」
その言葉にバーンハードも軍医も固まり思わず聞き返した。
「ど……どうして?」
「帰りたいんだ!こんなとこにいられない!!」
戦場に向かって「帰りたい」とは変な話だ。彼に帰る故郷などないからなのかもしれない。ヤモクの仲間を失って、どこかおかしくなってしまったのだろうか。
いち。君はニンゲンなのだ…と、バーンハードは言いかけてやめた。
「泳いででもフートに戻る、最後まで戦うんだ!」
勇ましく吼えるいちに軍医は何も言えずただ閉口した。責任者であるバーンハードの意見を待つ。
「あのね、いち君。落ち着いてまずは僕と話そう」
いちは強く肩を押さえられて、思わず起き上がらせていた体を寝かされる。その視線には有無を言わさぬ強い意志がこもっていて、一言も抵抗出来なかった。
「アラタから君のことを頼まれている。君を保護し、北葉月家に養子として迎え入れるよう」
「養子?」
すぐには理解できなくていちは間抜けに鸚鵡返しをした。
「ああ、君は北葉月いちになるんだ」
「ち、ちょっと……」
「このまま首都に戻り、戦争から離れて幸せに暮らすんだよ」
アラタもそれを望んでる。
「君の帰る場所は戦場じゃない。あの家だ」
感動の止(とど)めとばかりにバーンハードはそう言ったが、予想に反していちの顔には怒りが浮かんでいた。
「……あれ、いち君?」
「ぜっっっっ………たいに、嫌だ!!!」
▼ 12.束の間の安息
フートを守る戦線が持ち直したと伝令が来た。増援が着き、大量の兵が投入されてまた相手軍を押し返し始めたのだ。
「調子はどうだい」
「大丈夫です、心配しすぎだって」
「太陽の光に触れると死ぬって聞いたことがあるよ」
「そんなにヤワじゃない。まあ、少しくらい問題ないよ」
まあ寿命は確実に縮むだろうけど。呟いていちは外を眺めた。暗闇の向こうに海が見える。その向こうで、アラタは今も戦っているのだろうか。
「俺、どうしたらいいのかな……」
「僕に言わせればね、さっさと首都に戻って人の幸せを掴めばいいんだと思うな」
「あの家の子になれば人並以上の幸せを体験できるだろうね」
バーンハードとの会話は心地良かった。何も気負わないで話せる。心を開かせる不思議な力でもあるみたいだ。
「あの、大佐」
「ハルドでいいよ、大佐は堅苦しいし、名前は長いし」
「じゃあ、遠慮なく。ハルドさん」
「なんだい」
「俺……やっぱりフートに行きたい」
バーンハードは分かっていたように笑っていちを見つめ、仕方が無いなと立ち上がった。そしていちのベッドの端に手紙を置いて立ち去って行く。
「あの……」
「いいんだ、アラタに嫌われるのは慣れてる」
悪者になってあげるよ、と言い残してバーンハードは病室を後にした。
いちは恐る恐るその手紙を手に取る。宛先は書かれていなかった。
いちは文字が読めなかった。だが、その手紙を見ていると悲しくなって涙が出た。
「……どうして」
――どうして。こんな風にしかなれないんだろう。
手紙の中に「北葉月」という文字を見た。いちが読める数少ない字だ。きっと、そこにはいちのことが書いてあるんだろう。いちにもそれはわかった。
「う……」
それ以上この手紙を見ていたくなくて、いちはベッドに潜り込んだ。
明日、海軍の船が出るらしい。支援物資と、援軍が送られる。いちもそこに乗り込む予定だった。
バーンハードは良くしてくれる。いちのこともすごく可愛がってくれた。ここで養生したこのたった2日間、いちは初めて親に甘えるような心地を体験した。
本音を言えば、ずっとここにいたい。戦場に戻るのはもちろん怖かった。だがアラタを対岸に残して首都に戻ることなどできなかった。その上、アラタが得るはずだった北葉月家での幸せを、自分が横取りするなど。
「迷っているのかい、いち」
バーンハードはいちのことを大切に思っていた。アラタが託したからかもしれない。まだ幼いのに人並みに生きられなかったことを不憫に思ったからかもしれない。子供の頃からの大親友が、自分にヤモクの血が流れていると悩んだ時期があったからかもしれない。
「俺は、大きなことを言ったところで結局、臆病な卑怯者なんだ」
いちはアラタの手紙をバーンハードに押し返して立ち上がった。
「戦うのはもう嫌だ」
「いち、皆そうなんだ」
「その手紙、読めないけど、アラタが家族に宛てたものだろ。ちゃんと届けてくれ」
「読まなくていいのか?」
「何度も読んだ」
意味はわからない。けど、全ての文字の形を覚えてる。いちはそう言ってバーンハードに敬礼して見せた。
「八代バーンハード閣下、ユ国陸軍第十三大隊第三中隊ヤモクのいち、フート島防衛戦線に復帰いたします!」
▼ 13.再会
――きっと生きては帰れない。
バーンハードと別れを交わして、いちはフート島に上陸した。特別に作ってもらった遮光マントで全身を覆い、支援物資を抱えられるだけ抱えて、日の下へ走り出したのだ。
日陰を通っても、布越しにじりじりと太陽の熱を感じた。すぐに酷い疲労が襲い、ロクに進めない。それでもいちは日没を待たなかった。
旧街道を守る第三中隊へ向かって走り続けた。
仲間の臭いがし始めてから大分経つ。もうすぐその部隊が見えてくる頃だった。日も傾いてきて、いちは一息つきながらフードを外した。こんなことをして、自殺行為だと自嘲する。
海岸から、ずっと走って来た。心臓が痛い。頭も。目はヒリヒリして、全身が火傷したようだった。
「……ふう」
それでもいちはなんとも思わなかった。予想していたことだ。今更怖いなどと言うつもりもない。日が落ちたら動きやすくもなる。あと少し。と呟いていちは歩き出した。
アラタはミコトの代わりに第三中隊へ戻り、指揮を取っていた。部隊は増援を受け、後退しつつも未だ戦う気力を失わずにいた。
「弾は?」
「まだあります」
「しかし心許ないな……」
「ウチはまだマシな方ですよ」
夜が明けるまで動けない。それでもアラタは妙に落ち着いた心境だった。もはや諦めているからかもしれない。あとは最後にどれだけ足掻けるかだ。
「隊長!!」
そこに駆けてきた兵が、ただならぬ様子でアラタを呼んだ。何事かと振り返ったアラタは思い切り腹に衝撃を受けて倒れこむ。
「なっ、うわ!?」
慌てて目を開けて体を起こして、自分の腹に乗っかっているいちに気付き、反応するまでにたっぷり10秒はかかった。
「……いち?」
「ユ国陸軍特別輜重第三部隊、改め第十三大隊第三中隊ヤモクのいち、支援物資を運んでまいりました」
アラタの上に跨ったまま敬礼していちはそう捲し立てると、重い鞄をその顔の上に落とした。
「ぶわっ、いてえ!おい、こら!」
すると疲れが出たのか、緊張が解けたのか、いちはそのまま倒れこんで眠りについた。
「おい、いち?寝たのか?」
オロオロする部下に苦笑していちを抱えたままアラタは立ち上がった。
「いろいろ問いただしたいが……とりあえず休ませてやれ」
「はっ」
ヤケに重い鞄と熟睡しているいちを部下に任せてアラタは少し部隊から離れた。月明かりを頼りにしばらく歩く。
「……ハルドの野郎」
バーンハードの苦笑いが脳裏に浮かぶようだった。
――あいつ、今度こそ絶交だ。
いつだってそうだ。バーンハードは、アラタでさえ気付いていない本当の望みを叶えてくれる。そうして気付かされるのだ。ああ、俺は結局自分が1番なのだと。
いちを実家に送りたかったのは本心だ。しかしこうして目の前に現れた姿を目にして思ったことは「帰って来てくれたのか」という言葉だった。
足音がして闇に振り向いた。
「……怒ってないから来い」
適当に手を伸ばすとその指はいちの髪に触れた。いつの間にか月は雲に隠れ、辺りは完全な闇に包まれていた。
「うん」
小さな返事が静寂に飲み込まれるようにして消える。アラタはキラリと光ったいちの瞳を見つめた。
「少し歩くか」
いちが頷いたのを感じ取ってアラタは目を閉じた。道はいちが示してくれる。
「……十時の方向にまっすぐ進んで。障害物は何も無いから」
目を閉じているのに全く恐れず、アラタは平然と歩き出した。いちが指示を出す以外に会話はなく、2人はただ静かに宛てもなく歩いた。
しばらくそうしたあと、アラタが唐突に口を開いた。
「お前も困ったやつだな」
「こっちの台詞だ、自分勝手な野郎め」
間髪入れずにいちが答える。
「でも結局お互いのしたいようにしてこうなってるんだから良いだろう」
笑ったアラタにいちも微笑んだ。
「なんか、幸せだ」
「言うねえ」
こんな死の匂いがする地で、それでも2人は満たされた気分で笑いあった。
▼ 14.何のための戦いだというのか
「駄目だ!」
朝日が差し始めた隊のテントの中、アラタが大声を上げた。いちが遮光マントを羽織って戦場に立つことを断固拒否しているのだ。
「少尉さんが何と言おうと関係ないね」
「関係ある!隊長命令だぞ!」
それに少佐だ。と付け足す。いちは深くフードを被りテントから飛び出した。
「こら、待ちなさい!」
すかさずアラタが確保するが、なお暴れて行こうとする。兵士たちはどっちの味方もできずにただただ見守っているだけだ。
「わかった、わかった、じゃあとりあえず敵の情報が入るまでは日陰で大人しくしてろ」
不貞腐れるいちをテントに押し込めてマントを奪い、アラタは指揮を取りにテントから出た。
「ハルドめ、余計なもん持たせやがって…」
「隊長!南南東より敵軍が近づいています、中隊規模です」
「距離は」
「あと3刻ほどかと」
アラタはテントを見やり、静かに離れると兵士たちに指示を出し、縦列にて進撃した。接近とともに横へ広がり、防衛戦を張るつもりだった。
敵との接触まであと半刻と少しになったころ、こちらの応戦準備が整った。
「いちは置いてきてよかったのですか?」
「寝てるから大丈夫だろ。昨日一日走ってきたんだからな」
一応護衛に数人の兵も置いてきた。護衛というよりは、無理をしてテントから出て行くのを阻止する役目のために。
「敵の様子はわかるか?」
「今だ縦列のまま接近してきます」
「……おかしいな」
まさか一点突破するつもりか。アラタは慌てて兵士を呼び戻した。だがすっかり広がっていた兵士たちに命令が行き届き、陣を組み直すにはもう時間がない。
見えてきた敵軍は情報とは違い師団規模で、軽くこちらの10倍はいた。兵士たちは思わず戦意を失い、完全に絶望する。
「なんだ、あれは」
「少佐!これは……」
「大した大群だな」
少し考えた後、アラタは穏やかに言った。
「大尉、白旗は持っているか?」
「はっ」
ここにきてあの大群を見せつけられ、無謀にも戦おうなどとはアラタは思わなかった。兵士達を無駄死にさせて何になる。
「全軍、武器を置け、降伏だ」
白旗を掲げて兵たちに向かいアラタは言った。兵士たちも微妙な顔つきでそれに従う。正直、ほっとした者が大半だろう。
……しかし敵軍は止まらなかった。
第三中隊の兵達を捕縛し、何事か相談した後にまた武器を構えて進み出したのだ。アラタはギクリとした。この先にはいちがいる。
『少し変わったケモノのような人間がいるはずだ。捕まえてこい』
自軍の兵達は聞き取れなかったようだが、アラタにははっきりと聞こえた。そしてすぐに小隊規模の騎兵が北に向かい走り出す。
「……っ!」
アラタが思わず縄を振りほどいて走り出すと敵軍の兵士がその背に向かって何か叫んだ。だが止まる気など無い。
「隊長!」
それどころか何人か他の兵士もついて来た。アラタの剣幕に状況を察したのだろうか。
「お前たち……馬を奪え!奴らの後を追う!!」
アラタは銃を向けられているにも関わらずそう叫び、腰に差していた短剣で近くにいた騎兵から馬を奪った。それはあまりに一瞬の出来事で、周りが事実を理解するのに数秒かかったほどだ。
パンッと銃声がしてアラタの頬を銃弾が霞めた。それに驚いた馬が勢いよく走り出す。いくつか銃声が響いたが、どれもアラタを捉えることは出来なかった。
後を追おうとした者が何人か撃たれて捕まったが、20人ほどの兵がアラタに従いついて来た。残された兵はそのまま連れて行かれ、更に小隊ほどの騎兵がアラタたちを追う。
それらは歩いて二刻ほどの距離を半刻足らずで駆け戻っていった。
「隊長!見えてきました!十一時の方向です!」
前の方に敵の騎兵が見える。キョロキョロといちのことを探しているようだった。
「先に行ってください!」
1人の兵がそっちに道を外れて走り出すと、更に5人が後に続いた。
「待っ……!」
「大丈夫ですから!」
アラタはその行動に言いようの無い感情でいっぱいになり、何も言えないまま先を目指した。後ろからも追っ手が迫っている。あの兵士達は全てわかった上で囮になることを選んだのだ。
いちのいるテントまでもうすぐだった。
「追っ手は!」
「……っ近いです!」
アラタは馬をきちんと止めもせずに飛び降りるとそのままの勢いでテントに飛び込んだ。いちは物音で気付いていたらしく、落ち着かない様子で待っていた。
飛び込んで来たアラタに駆け寄って何事かと捲し立てる。
「少尉さん!どういうこと……」
「うるさい!」
バッと乱暴に遮光マントを羽織らせてアラタはいちを担ぎ上げると馬に乗せた。
「口は閉じてろ、舌を噛むぞ」
「なに……うわっ!!」
勢い良く走り出した馬に驚いていちは手綱にしがみついた。兵達も後についてくる。
「追いつかれます。武装の軽い敵軍の方が速い」
1人の兵がそう言い、事実小隊はあっという間に囲まれてしまった。
「少尉さん、俺……俺、行くよ!!」
状況を把握したいちがそう言った瞬間、アラタは大声で叫んだ。
「いちを守れ!!」
「なにっ、やめ」
オーッと雄叫びを上げて兵達が相手の騎兵に突撃していった。丸腰の彼らには体当たりくらいしかできることがない。だが対する相手は全員銃を持っている。
「だめだ!降伏してくれ、俺っ、俺行くから!逃げて!!」
「いち!」
アラタは暴れるいちを押さえつけ、兵達が開けてくれた敵の隙間から飛び出し、一度も振り返らずに馬を走らせた。そして、いちはアラタの腕の間から殺されていく仲間を見ていた。
馬から落とされて血を流しながらも、いちを追おうとする騎兵の足にしがみつく。
「やめろ!!逃げて!!いやだあぁぁっ!!」
無情に頭を打ち抜かれて地面に落とされる兵士たち。伸ばした腕がマントから出て、皮膚が焼かれるように痛んだ。
『追え!!』
敵の騎兵を従えている者がいちを槍で示して叫ぶ。その馬の足下にはいちを守ろうとした兵の死体が転がっていた。
「いち、暴れるな!!」
「こんなの嫌だ、戻って、俺逃げたくない!」
錯乱したいちが手綱を乱暴に引き寄せて、馬が一瞬バランスを崩したその瞬間、アラタの脇腹に銃弾が当たった。
「う、ぐ…!」
いちの目が驚愕に見開かれて、アラタを映す。
一瞬時が止まったようだった。
「あ、ら……た」
――ああ、1番傷つけたくなかった人の足を引っ張ってしまった。
――俺を守ろうとしてくれた人たちの気持ちを無視した挙句……。
――どうしよう、アラタが。俺のせいで。
「……っ、大丈夫だから、じっとしてろ」
硬直したいちを支え直して、アラタはそのまま馬を走らせた。
元々鎧を纏わず、武装の軽かったアラタ一人なら、騎兵を撒くことは存外に容易であった。日が落ちて辺りがすっかり暗くなる頃には追っ手もいなくなり、海岸にある本隊まであと少しになった。
「…う……」
「アラタ…っ」
だがアラタの体力はもう限界で、受け身も取れないまま、とうとう馬から落ちてしまった。いちも慌てて馬から飛び降りアラタの様子を伺う。
ぐったりしているその顔には血の気が無く、いちは泣きそうな気持ちで声をかけた。
「ごめん、ごめん、なさい……」
「まだ……生きてるって……」
ほとんど吐息のような声で答えてアラタは場違いに笑った。
「痛い?」
「すげぇ痛い」
抑えている右手から溢れるように、じわじわと血が流れ出てくる。打ち込まれた銃弾は体内に残っているようだった。
うつ伏せで地面に倒れていたアラタを転がして仰向けにさせる。「いてて」と笑ってから、アラタはゆっくりと瞬きをして呟いた。
「俺は……ジオル島で、死に損なったんだ。ようやくその時が、来ただけだ」
穏やかにそう言って疲れたように目を閉じる。いちはその顔を覗き込んで聞いた。
「眠るの」
「うん……少し休ませてくれ」
それを聞いていちは立ち上がり、馬の手綱を外すと背を軽く叩いて走らせた。自由にすればいいと思った。どこへでも行けばいい。
そうしてアラタの横に座り込む。
「……俺、ここにいる」
「夜が明けるまでには、本隊に帰れ」
アラタはもうほとんど目も見えず、掠れ掠れにそう言う。いちは瞼を乱暴に擦って吐き捨てるように返した。
「嫌だ」
「おい、最後の命令くらい聞いてくれよ」
おかしそうに笑ってアラタはふらふらと左手を伸ばす。いちは思わずその手を取って自分の頬に当てた。
指先が冷たい。氷のような冷たさだった。
「ジオル島で死に損なったのは俺の方だ。俺だけが生き残った。みんな殺されたのに、俺だけが……」
「いち」
アラタは血の付いた右手を上げていちの腕を掴んだ。ぬるっとした嫌な感触が肌につく。
「あと半刻だけ、ここにいていい」
その後は本隊に戻って、あとは好きにしろ。そうしていちの手を握ったまま降ろし、左手で頬を撫でる。
「……ばか、こんなことで泣くな」
「怒ってるんだ。身勝手、馬鹿はあんただ。隊長失格だ」
「そうだな」
アラタがまた笑い、一瞬沈黙が降りて、妙な音が聞こえ出した。
「ん……なんだ、お前か?」
「そう」
アラタはもう閉じかけていた重い瞼をなんとか持ち上げる。寄り添ういちが猫のように喉を鳴らしていた。
「こうすると怪我が早く治るんだ、きっとすぐに良くなる」
すごいな、と笑って今度こそアラタは黙り込んだ。もう息をするのも辛かった。
いちもそれ以上話しはせず、ただ黙ってアラタの胸に耳を当てていた。鼓動と、呼吸の音を聞いていた。
「いち…俺、いま……幸せだ」
「ばか」
辺りにはいちが喉を鳴らす音だけが静かに響いていた。
▼ 15.手紙
ユーリオーリが降伏を宣言したのはそれから一週間後、フート島に出た兵士の半数以上が死傷し、残りの大半が捕虜として捕まった頃であった。ジオル島で初めてその力量差を思い知らされてから、数ヶ月の時が経っていた。
そして首都サントオールにある北葉月家に一通の手紙が届いたのは、その知らせが発表されたまさにその日のことだった。
――前略、母上殿
こうして手紙を書くのは軍学校時代以来ですね。このようなものは残さないつもりで戦場へ出てきました。
俺はもう、そちらへは帰れないでしょう。もちろん悔いなどはありません。ですがひとつだけ頼みがあります。
いちが俺の代わりに北葉月家へ帰ります。どうか、北葉月いちとして迎えてやってください。
あいつが知らなかった人間らしい生き方を教えてやってください。文字を教えてやってください。愛情を教えてやってください。
帰れない俺の代わりに、幸せを与えてやってください。あいつが心から笑える日々が来るのを願っています。
今まで育ててくださって、ありがとうございました。このご恩は忘れません。――
「あれで、よろしかったのですか?」
1人の海兵が呟くように言った。視線の先には大きな背中がある。振り返った大男は体躯に似合わぬ優しい瞳をした海軍大佐であった。
「え…うん、どうして?」
「悲しそうな顔をしておられます」
彼の部下たちは総じて彼に心酔している。よくも本人さえ気付かない感情に気付けるものだ。それだけ彼が良い指揮官であり、人間として立派な証拠であった。
そのようなことを自覚した上でバーンハードは照れたように、少し困ったように微笑んだ。
「あれを届けるのが、アラタからの最後の頼みだったからね」
それに関しては何も無いよ。そう返して水平線を眺め、ぼんやりと2人のことを思い出す。
「でも、義姉さんには申し訳ないことをしたな、と思って」
一度に息子を2人も亡くすんだからな。言いながらバーンハードは肩を揺らし、今度こそ笑った。
いちはあれから、とうとう本隊へは帰らなかったのだ。その後どこへ行ったのか、誰にもわからない。ただ、アラタの遺体にはいちのマントが被せられていた。
「あいつら…2人して戦うのは怖い、嫌だって、この僕に向かってよくも言ってくれたよ」
取っ捕まえて処刑ものだ。そんな言葉に海兵も笑って、そろそろ行きましょうと踵を返した。バーンハードは海に向かって敬礼し、後に続いた。
――これから、大国の支配下に置かれ、このクニはどうなっていくのだろう。
「なんだ、思ったより早かったな」
小さな背中に呼びかけると彼は振り返り、その綺麗な瞳が太陽を反射して煌めいた。
全く、お前はどうしたら俺の言うことを聞いてくれるんだ。そう言うと彼は口を尖らせて鼻を鳴らす。
「ほら、怒らないから、こっちに来い」
手招くと彼はゆっくり俺の前まで歩いて来た。
「いち」
名を呼ぶと彼は笑った。
▼ 海軍大佐の思い出話
これは、このクニがまだ「ユーリオーリ」と名乗り、独立した国家であった頃。
そんなずっと昔の、とうに過ぎ去った過去の話だ。聞きたい奴だけ付き合ってくれたらいい。
――本城ミコトとは、生まれる前からの付き合いだった。
父親同士が長い付き合いの親友で、だから僕たちは兄弟同然に育てられた。物心ついた時から一緒にいて、何をするのも、どこへ行くのも一緒で。
平和なこの国に「軍」などと言うものは無用だと国民たちの大半は思っていただろう。僕たちの親も軍に対して積極的ではなかった。
でも、僕もミコトも、軍の道に進学したのだ。
別に戦争が好きなわけじゃない。ただ僕は……そして多分ミコトも、「そうせねばならぬ」と感じたからそうしただけなのだった。
ミコトは士官学校に、僕は海兵団に。
それからの道はお互い、いろいろと大変だった。
なにせ僕は単なる一海兵からのスタートだ。よくここまでなれたと我ながら思うよ。家柄のおかげも多少はあったし、この体躯も少なからず物事を有利に運んでくれた。
勉強もしたし、何よりも僕は仲間に恵まれていたな。僕のことを支持してくれる人たちがたくさんいたから、最終的には異例の大佐にまで上りつめることができた。
対してミコトは軍学校卒業すぐ大尉に任命される優秀な生徒だった。お優しいあいつにはほとほと似合わない、厳しい顔をして毎日兵たちを動かしていた。
「ミコト!」
「……ああ、ハルドか」
振り返ったミコトは疲れているようで、眉間に深い皺を刻んだまま僕を睨むように見た。
「怖い顔になってる」
苦笑して見せるとミコトは額を押さえて眉間の皺を緩める。いつだって柔和な笑みを向けてくれていたミコトからは想像もつかない姿だった。
意識しないと険しい顔を解けないなんて。
「最近、どうしたんだ?」
「別にどうもしないよ。君こそすごいじゃないか、もう中尉になったんだって?あっという間に大将にでもなれるんじゃないか」
さして興味もなさそうに饒舌に話すミコトは不機嫌なわけではなく、本当に疲れているようだった。
「ミコト、誤摩化したって意味ないよ、噂は聞いてるんだ。僕にも詳しいことは話せないのか?」
――噂。
それは、ミコトが「ヤモクを輜重部隊に起用したい」という提案をしたという内容だった。どうして突然あの「ヤモク」の名が出てくる?一体何があったんだ、お前、軍でどんな風に言われているのか知っているのか?
「本城少佐殿はご乱心だ」と馬鹿にされ、もうすぐ大佐に任命されると噂があるので調子に乗っていると陰口を叩かれているのだ。
思い詰めたような顔のまま何も話してくれないミコトに焦れた。
僕はミコトが心配だった。ヤモクのことを差別する気はない。だが…それに関わる事によって、世間から自分まで差別される必要など無いと思っていた。
僕は冷たい人間なのだ。自分と、その周りを守ることで精一杯で、それで良いと思ってる。そうだろう、誰だってそうじゃないか。
「私は彼らの特性を考え、より能率的な部隊に所属させようとしているだけだよ」
「それは分かる!だがそれを大声で訴えたりしたら……!」
「このクニでは、差別の対象にされる?」
僕の言葉を遮ったミコトは煌めく瞳をこっちに向けた。
「ミコト…?」
まさか。見間違いだと思った。日の光が反射したのだと思った。でも、ニンゲンの瞳に太陽の光は反射しない。それは、眼球が鏡のようになっている猫ないし夜行性物、もしくは"ヤモク"の特徴。
「単純な奴だと思うかい、ハルド。私はね…」
仲間が差別されているのが悔しいんだよと言い残して、ミコトは去っていった。
あの時のミコトが本当にヤモクに対して"仲間意識"を抱いていたのかどうか、それはもうわからない。ただ、いち君の事を知ってから、アラタがその部隊に彼を引き入れたいと言い出してから、ミコトはすごく楽しそうに見えた。
それは、ジオル島が占領されてしばらく経ったある日の会話。ミコトから家に来るよう連絡があって、何事かと慌てて出向いた時の話だ。
「ハルド、私は間違っているかな、少し冷静さを欠いているみたいだ」
いち君を私の隊に入れてみたいよ。と高揚しながら相談してくるミコトは嬉しそうだった。
「でも、輜重部隊に送るべきだとはもちろん、わかっているんだよ、本人とも相談してみようと…」
「ミコト」
そんな世間話のためにわざわざ僕を呼び出したのかい。苦笑するとミコトは悪びれもせずに「君としかこんな話題は話せないんだもん」と笑った。
「いち君と北葉月少佐を見ているとね、私が昔悩んでいたことがばからしくなってくるよ」
「ああ、僕も話だけは聞いたけど…いい子なのかい」
「とってもね」
ミコトの目が煌めく。僕はその様子が好きだった。思わず瞳を見つめていてハッとした。
「何、見つめたりして」
笑うミコトの顔には以前のような無理をしている眉間の皺も無く、何か思い詰めているような風も無く。ただ、幼い頃と変わらない笑顔がそこにあった。
「若い頃はいろいろ悩んだりもしたけどね、私はやっぱり軍に入ってよかったと思えているよ」
「お前…いつから自分にその血が混じっているのだと気付いていたんだ?」
「もうずっと子供の頃から…、だから、士官学校に入った」
そんなに昔から知っていたのか。ずっと気付かなかった事に苦笑する。
「で、悩みは解決されたのか」
「諦められるようになったのさ」
でも、いち君だけは守るよ。と呟いてミコトは椅子に深く座り直した。
「きっと北葉月少佐だってそう言うだろうけど、私からもお願いしておくよ。ハルド」
何かあったら君が彼を守ってあげてくれ。
"ここ"に残されたのは結局、僕だけだった。ミコトも、アラタも、いち君も。皆して勝手な事ばかり言って。好きなように生きて。
だから僕は板挟みさ。困っちゃうなあ。わがままを言ってよかったなら、僕も言いたかった。こんな風に言うと怒られるだろうな。でも…
「君さえ生き残ってくれれば、それでいい」
本当はそう言いたかったんだ。
▼ 北葉月アラタの手記
ユ国歴 124年
北葉月アラタ(火雷) ユ国陸軍少尉 第三大隊 第六中隊 第三小隊 将校
こうして紙と鉛を手にしたのも何かの縁かと、記録を記す
7月15日 火
空は良く晴れている 風も穏やか
ジオル島はとても綺麗な島だ
北葉月家に生まれ、何の苦労もなく少尉になり、一小隊を任された。そして今日、戦場に降り立った。
俺は、まだどこか夢見心地である。
これからどうなってゆくのだろうか。
ところで、俺たちと共にヤモクの部隊も送られてきたと聞いた。
懇意にしていた猪野寺伯宅のご子息もヤモクだったとか。
彼らはどうなったのだろう、俺には知る由もない。
戦場で顔を合わせることもあるだろう。
俺はどんな風に彼らと接するべきだろうか。
できるなら、言ってやりたい。
君らに罪は無いのだと。
だが、あの大きな耳を、暗闇で光る不気味な瞳を前にして、俺はいつまでも偽善者でいられるものだろうか。
自信はない。
ーーー
7月16日 水
少し曇っているが、まあ晴れている
上からの指示があり、第六中隊以下五小隊は南へ動いた。
敵軍はまだ見えない。
だが、近いうちに刃を交えることになるだろう。
初めての実戦だ。
少し緊張している。
夜のうちにヤモクを走らせているらしい。
伝達で敵の情報が伝えられてきた。
夜道を走り回れるというのは、なかなか便利なものだと思う。だが、やはり我々とは違うのだと思い知らされる。
ヤモクの知能はどれくらいなのだろうか。
教育は受けられないだろう、文盲であることは間違いない。
上の指示を理解して敵の居場所や数を知らせる脳はあるということか。
いや、それは本当に正しいのか?
嘘をついていない確証は?
俺にはどうしてもヤモクの持ち帰った情報が信じきれない。
ーーー
7月17日 木
昨日は初めての戦いだった。
ようやく目が覚めた気がする。
戦争とはこういうものなのか。
たった数時間のウチに何人の人間が死んだだろう。
我が軍の心持ちが甘すぎたのだ。
早くも戦況は最悪である。
金持ちのぼんぼん士官どもは早々に敗走に転じ、 兵達には指示が行き届かない。
もたもたしている内に敵軍は迫ってくる。
今は冷静に何も考えられそうにない。
今こうして生きている事さえも夢のようだ。
ーーー
7月25日 金
月も見えない曇天
残されたのはユリノ中尉殿と、数人の兵たち。
あれほどにいたはずのユ軍の兵たちはどこに行ってしまったのだろうか。
これが戦争か。それでもなんとか、俺はまだ生きているようだ。まさか予想もしていなかった。
これほどまでに自分の認識が甘かったなど。
……俺は、平和にかまけていた自分が憎い。
これ以上無い愚か者だ。
ユリノ中尉殿は何を考えているのか、海岸へは向かわないと一点張りで、まさか俺たちに死ねと言うのだろうか。
どうする。このまま。ここで。死ぬのか。
笑えて来た。鉛を握る手が震えている。
二度と帰れない覚悟など、してきたつもりだった。
ーーー
7月26日 土
早朝、少し雲が晴れてきた
昨晩ヤモクと相見えた。
最悪だ。俺は自己嫌悪を隠せそうにない。
奴等は所詮ケモノだと。
違う、彼らはニンゲンだ。
どうしてこんな時に。
若い兵ばかりだった、頭が混乱している。
ーーー
手記はここで途絶えている
▼ 猫の独白
少しだけ、"あの頃"の話をしようかと思う。
ちょっと暗い話になるけど、付き合ってくれないか。
これは俺とあの人が
どんな最期を迎えたのかっていう物語。
血生臭い真っ暗な夜、俺はあの人と出会った。
俺にとって夜は優しい世界だったけど、
あの人にとっては恐ろしい闇だった。
だから俺は、あの人の目になってあげたんだ。
それが俺とあの人の物語のはじまり……。
ーーー
俺たちは出会ってすぐ、
敵の罠にかかってしまった。
そんな俺たちは
仲間が次々と殺されていくのを
すぐそばで何も出来ずに
ただ見過ごす事しかできなかった。
朝が来て、太陽の光が俺の背を焼いた。
それからの事はよく覚えてない。
ただ、不甲斐なくて……。
ーーー
その後、俺たちは束の間の休息を得た。
生きてきた中で、一番幸せな日々だったかもしれない。
柔らかい布団に包まれて、温かいご飯を食べて……。
夜になったら、あの人とただ街を歩いた。
ーーー
でも、そんな世界は俺のために用意されたものじゃない。
それがわかってたから、心の底では寂しかった。
俺はまた戦場に戻った。
あの人とは別々の道を選んだ事、今でも後悔はしてない。
今度こそ仲間のために
出来ることを全てやり尽くす為に
この心に空いた穴を埋めるために
悲しさや、恐怖や、怒りを抱き締めて走った。
もう諦めろって言われても、そんな事できるはずがない。
最後まで、俺は……。
一体これが何のための戦いなのかなんて
わからないまま。
ーーー
気がつくと、また俺だけが守られていた。
こんな風に優しくされた記憶なんかない。
こんな暖かさを、どう受け止めて良いのかわからない。
あの人は俺に幸せを与えようとする。
そんなものいらない。
これはあんたが受け取るべき幸せだったはずだろ。
ーーー
渡された手紙は読めなかった。
でも、そこに書かれている文字を
何度も何度もこの目で追いかけた。
それを見つめているだけで涙が出た。
どうしてこんな風にしかなれないんだろう。
ーー幸せになりたかったよ。
あの人と一緒に、ただ幸せな日々を生きたかった。
そんな事さえ願えないって事が
どうしようもなく、切なかった。
ーーー
俺は走った。
太陽に灼かれて、体が燃えるように痛かった。
でも、このまま死んでもいいと思ったんだ。
ただ、あの人に会いたかった。
少しでも力になりたくて、命を燃やした。
だけど大事な時に俺はいつも守られてばかりで…。
ーーー
ようやく出来た大切な仲間たちが
俺のために死んでいくのを、ただ見つめてた。
泣いて叫んでも全部奪われていった。
そしてとうとう、あの人さえも、俺のせいで。
俺はいつもこうだ。
誰かに守られて、誰も守れないで。
氷のように冷たい手に触れた時
ここがこの命の終わる場所なんだと悟った。
せめて少しでも痛みが和らぐように
猫のように寄り添った。
それは幸せな幻と勘違いするほど、
やけに静かで穏やかな時間だった。
少しだけ待ってて。
俺も、ちゃんと一緒にいくから。
ーーー
それから俺がどこで何をしていたのかは話せない。
だって、猫は自分の最期を誰にも見せないものだろ?
ちょっと湿っぽくなっちゃったな。
あの人が呼んでるから、もう行くよ。
思い出話に付き合ってくれてありがとう。
準備中
大和と倉
▼ ボロ屋の主人と便利屋さん
「……はぁ」
廃墟同然なボロ屋の前に佇む探偵風の老人が1人。その手には分厚いノートと使い古された万年筆。彼は少し暑いのかハットを手に取って顔を扇ぎ、それからゆったりとした動きで門を押した。玄関の扉まで続く庭は荒れ果て、雑草が生い茂っている。
「やれやれ……」
老人は仕方が無いな、と言った風にため息をつき、ハットを被り直すと敷地内へと足を踏み入れた。
------ボロ屋の主人と便利屋さん------
ギシ、と床が軋む音がカビ臭い廊下に響く。扉に鍵はかかっていなかった。いつものことだ。老人は埃を吸わないように口元を手で覆いながら長くて暗い廊下を進んで行く。
左右に無数にある扉はどれもずっと触られていないようで、すっかり埃が積もっている。彼が向かうのはそのどれでもない、この建物の中では比較的綺麗にさえ見える一番奥の扉だ。そこだけは取っ手に何も積もっていないので、人の出入りがあることを知らせてくれる。
コンコンコン、と律儀に三回ノックをしてから扉を開くと物だらけで骨董屋のような雰囲気の部屋が広がった。
「相変わらずだな、倉」
すると「くら」と呼ばれた青年が本の山から顔を出す。
「なーんだ、来てたんですか大和さん」
「呑気な」
老人、大和は足元のアンティークやら本やらイヤに煌びやかな装飾品やらを踏まないよう気をつけながら部屋に踏み入り扉を閉める。
「何、何か用?」
「用も無いのにこんな所へ来るはずがない」
大和は無愛想に返しつつ、積まれた本の上に置いてある趣味の悪いカエルの置物を指で弾く。
「いいじゃん別に、いつでも遊びに来てくださいよ」
気にした様子もなく倉は本のページを捲る。
「断固、拒否だな」
大和は踏まないようにするのを早々に諦めてガシャガシャと倉に近づくと一枚の紙を差し出した。
「あんまり踏まないでくださいよ、僕のコレクションなんだから。で?なぁにそれ?」
「俺の所に来た依頼書だ。町の奴らはとうとうこんなジジイにまで縋り付くほどお前の扱いに困っているらしい」
「で、大和さんはそれを受けて来たんだ?」
「バカな」
「あれ、断ったんですか?」
倉は意外そうに目を丸くして体を起こした。
「お前がここから立ち退いたら、ここは潰されるだろう。そうしたら俺はこれから用がある時、一体どこに立ち寄ればいいんだ?」
しれっとそう返した大和に倉は何度か目を瞬かせる。それから意味を理解してようやく笑った。
「ふはっ……大和さんって、つくづく素直じゃないですよね」
「貴様には言われたく無いな」
「僕は素直ですよ、実にね」
コーヒーでも?と勧める倉。自分で淹れる。と勝手知った風な大和。
――これは半世紀も年の離れた親友の話。
▼ 大和と倉とお祖父様
「大和さん!」
駅に向かっている途中、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「倉か、何をしてる?」
「大和さんこそ何してるんです、こんな騒がしい街で」
「仕事の帰りだ」
「また何でも屋みたいなこと引き受けてんの」
「仕方がないだろう」
------大和と倉とお祖父様------
元は探偵業を営んでいたのだが、今ではすっかり便利屋になってしまっている現状。それを俺がとても気にしていると知りながらわざとこの若き友は小馬鹿にしてくる。ため息をつきながら心中で嘆いていると倉は笑顔で尋ねてきた。
「でも帰りってことはもう済んだんだ?じゃあ僕の依頼受けてくださいよ」
「は?」
「金ならあるから!」
そう言って倉が差し出したのはクシャクシャの壱万円札だった。ぼんやりしていると更に2枚手に乗せられる。どうしてこんなにシワだらけになるんだ、財布くらい持て。
「……内容に寄る」
「僕のこと泊めてください」
「はぁ?」
つい、構わんが………と呟くと倉は大喜びして早速俺の腕をひっ掴むと駆け出した。俺は引き摺られるように小走りになりながらもどうにか呼び掛けて引き止める。
「待て待て、訳を話せ!」
「お爺様が来るから帰りたくねーんだよ、いいでしょう3泊くらい」
「3泊!?」
というか、軽く3万も出せるならそれなりに小マシなホテルに行けるだろう……と言いたい所だが、倉はこういうやつだ。きっと聞かないだろう。仕方なく一緒に電車に乗り込んだ。
「大和さん、僕たち親子みたい」
「下手したら孫だ」
「本当ですねー」
何が楽しいのか、くすくす笑う倉をげんなりと見つめる。するとその視線に気付いて更におかしそうに笑い出すからタチが悪い。
「大和さんち初めてだ」
「そうだったか」
「そうですよ、お初!」
倉の祖父は旅好きであちこちに別荘がある。訳有ってその別荘の内のひとつを管理している倉は、祖父がやってくる度にどこかへ姿を眩ますのだ。屋敷をまともに整理していない罪悪感からか、単に会いたくないのか、また別の理由があるのか……。
俺が倉に出会ったのも、家出した孫を探してくれとじいさんに頼まれたからだ。じいさんがここに滞在する3日間いくら探しても見つからなかった当時14歳のクソガキは、 じいさんがまた旅に出たその日の夜にひょっこりと帰ってきたのだった。
「ご苦労でしたね、探偵のおじさん」
と笑った憎らしい顔は未だにはっきりと思い出せる。
何故、祖父に会いたがらないのか。気にならないと言えば嘘になるが、無理に聞き出すつもりもない。ご機嫌そうに前を歩く背中をぼんやりと見つめながらそんなことを思っていた。
「大和さん、僕の依頼が先なんだからお爺様から依頼が来ても売らないでよ」
「ああ、了解した」
「それでいーです」
それは昔と変わらない小生意気な笑顔だった。
▼ 大和と倉と晴れた空
いつでも身勝手な金持ちのガキは、朝っぱらから元気にはしゃいでこの老体を外に連れ出そうとする。
------大和と倉と晴れた空------
「倉!」
やつの名を叫ぶと大抵の人間はそれを名だとは思わずに、俺が「こらっ!」と怒鳴り声をあげたのだと勘違いする。それをわかっていてやつはわざと人ごみで俺を怒らせる。
「大和さん、ピクニックに行きましょうよ」
数日前のことだ。埃だらけの倉の家に立ち寄ったら、唐突にそう提案された。いつも1人で楽しそうなくせに、俺を巻き込むんじゃない。思ったことをそのまま伝えて返事としたら、倉はわざとらしく、むすっと頬を膨らませて見せた。
「いいじゃん、ね、なんでもやさん」
「依頼だと言うなら金を払え。そうしたらどこにでもお供してやる」
「素直じゃないんですから」
何でも屋と呼ぶな、と何度言ってもわからないやつだ。俺はこれでも探偵の矜持を捨てたつもりはない。人が気にしていることをよくもぬけぬけと。
――そんなわけで、俺と倉は歩いているのだった。
「あまりフラフラするな、危ないだろう」
基本的に倉はフラフラしている。ついでに言うとキョロキョロも、ヨロヨロもする。つまりどういうことかと言うと、注意散漫、集中力皆無、危険人物。放っておくと駅のホームから落っこちそうでこちらがヒヤヒヤさせられる。
「ピクニックに行く前にあの世へ行くつもりか?このクソガキ」
シャンと立って待ってろ、と腕を引く。
「ごめんごめんー」
それでもキョロキョロと忙しない。この町にずっと住んでいるのだから、珍しい、目新しいものもないだろうに。
「ところで、どこまで行くつもりだ」
「ん、5駅向こう」
「中心街でピクニックか?」
「なんかおかしい?」
「……いや」
次は俺がピクニックに誘ってやろう。そう思った。空気の綺麗な山に行って、塩だけのおにぎり持ってって。都会っ子に自然というものを教えてやる。
「天気がいいから気分もいいねー」
「排気ガスの香りのするピクニックは人生初だぞ」
「そもそもピクニックってどういう意味?」
▼ 大和と倉とかなうちゃん
「退屈ですねぇ、大和さん」
「こんな豪華な庭で、豪華なモン食いながら何を言ってるクソガキ」
「なんかないかな」
「基本的に何もしたがらないお前が何かしたがってるだけで、俺は嫌な予感がするぞ」
------大和と倉とかなうちゃん------
ここはいつもとは違う静かな別荘地。もちろんここも倉の祖父の物だ。倉の管理する屋敷が(倉は全てコレクションだと言うが、つまりゴミ的な問題で)住めなくなったので、避難してきている。その間に便利屋に家の掃除を任せているのだが、慣れない地でひとりは嫌だからと大和を呼びつけたというわけだ。
「嫌な予感ねぇ……」
広く整理された庭の真ん中にある木陰に高級そうな白いテーブルとチェアを並べ、一流シェフに豪華な昼食を作らせて。それを気まぐれに口に運びながら、ぼんやりと空を見上げながら、欠伸を噛み殺しながら、倉は退屈そうに眉間に皺を寄せる。
「海にでも行って来い」
「やです、まだ寒い。それなら地下のシアタールームで映画でも観てる」
なんて贅沢なガキだと呆れつつ、慣れている大和は気にも留めずに食べ続ける。すると遠くから甲高い声が聞こえた。
「くらーっ!」
ふたりは一瞬動きを止め、目を見合わす。
「……今、話しました?大和さん」
「そんなわけないだろ」
「くら!」
その声は近くまで来ている。
「やまと!」
大和は服の裾を引かれた気がしたが、気のせいだと思うことにしてまた口を動かす。
「むしするなよ!おい!くそやろう!」
「……和、下品な言葉を使うな」
我慢できずに声を掛けたのは倉だった。和(かなう)……口が悪くて偉そうなこの少女は倉の姪で、御歳5歳。
「どうやって来た?どうして俺がここにいるって知ってる?」
「タクシー!おじいさまがおしえてくれた!」
流石の倉も和の無茶苦茶さには敵わない。都心から何時間もかけて、たったひとりで、タクシーで、5歳児が。
「……はぁ……姉さんは?」
「いえでエステ!」
「義兄さんは?」
「おしごとー」
本当にひとりなのか。よく来れたな、なんて今更だ。和はしょっちゅうひとりでタクシーを乗り回し、時には大阪にある倉の屋敷にも来るのだから。
「お前の将来が心配だよ」
「だいじょうぶ、おかかえうんてんしゅのたくしーだから」
「意味わかってねぇくせに……」
面倒なことになったと言いたげにため息をついて大和はチェアをもうふたつ用意した。
「運転手さんも呼んで休憩させてあげなさい」
「わかった!やまとはやっぱりしっかりしてる!」
走り去って行く小さな背中を見送りつつ、倉はうな垂れた。
「ふん、退屈じゃなくなったな?」
「最悪ですよ……」
やっぱり退屈って最高。退屈が愛おしい。